できごと

ブラーマグプタのゼロ

Brāhmasphuṭasiddhānta
AD628年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民コイサン西アフリカの穀作農民唐ササン朝ペルシア東ローマ帝国突厥ヒンドゥーの諸王国カナウジチャールキヤ朝ガウダ王国(シャシャーンカ)インドの影響下の小国群ササン朝の従属国タイ系の諸王国アクスム王国マクリアPallavasHejazアルワKamarupa真臘Nobatiaハザールドヴァーラヴァティー扶南チャーハマーナ朝ブレンミュエスチャンパMazunシンハラAD628年ビンマール(ビッラマーラ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD628年の版図を描いています(30勢力)。

概要

『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』。ゼロを数として扱い、負の数(借金)を含む計算の規則を書いた最初の本。「ゼロを足しても引いても変わらない」「借金から借金を引くと財産になる」「ゼロで割ると……」(この最後だけ、彼は答えを出せなかった)。10進の位取りと、この規則が、8世紀にバグダードへ、12世紀にヨーロッパへ渡って、いまの数字になった。

場所

ビンマール(ビッラマーラ)
25.00°N 72.25°E · インド・ラージャスターン州

関わった人(1)

ブラーマグプタAD598年–AD668年 · 書いた

本文

「何もない」ことを示す記号そのものは、古くからいくつもの文明にあった。バビロニアの書記は、60進法の数の中で空いた位を示すために斜めの楔の印を使い、マヤの暦の碑文には貝のような形のゼロの記号が刻まれた。しかし、それらは「ここには何もない」という空席の札であって、ほかの数と同じように足したり引いたり、掛けたり割ったりできる一つの数ではなかった。ゼロを計算の対象として扱うには、もう一歩の飛躍が必要だった。

インドでは、紀元前3世紀のブラーフミー文字の数字から、しだいに九つの数字を並べて位で値を表す書き方が育っていた。5世紀のジャイナ教の宇宙論書『ローカヴィバーガ』(458年)には、位取りとゼロを使った数の書き方がすでに見える。天文学者アーリヤバタ(476年生まれ)も、位取りを前提とした計算を行っている。そうした積み重ねの上に、628年、ブラーマグプタの著作が現れた。

ブラフマグプタが学究生活を送ったウッジャイニー(現ウッジャイン)は古代から近代に至るまでインド天文学の中心地であり、標準時や地球の大きさを測る際の基準となる経線もここに設定されていた。写真のウッジャインのジャンタル・マンタル(英語版)は、18世紀のマハーラージャの一人ジャイ・シング2世が建てた巨大な日時計で、天文観測台も兼ねる。
ブラーマグプタWikimedia Commons Gyanendra_Singh_Chau… · CC BY 3.0

彼は598年の生まれで、インド西部、いまのラージャスターン州のビンマールにあたるビッラマーラの町で、30歳のときに『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(正しく確立されたブラフマーの体系)を書いた。本来は天文学の書で、惑星の位置、日食と月食、暦の計算法を説く。当時のインドの学術書の習いどおり、暗誦しやすいサンスクリットの韻文で書かれ、およそ1000の詩節からなる。そのうちの数学の章の一つで、彼はゼロと負の数を含む計算の規則を、まとめて言葉で定めた。

彼は正の数を「財産」、負の数を「借金」、ゼロを「空」と呼んで、規則を並べた。借金から空を引けば借金、財産から空を引けば財産、空から空を引けば空である。空から借金を引けば財産になり、空から財産を引けば借金になる。いまの記号で書けば、0−(−a)=a、0−a=−a にあたる。二つの財産の積、二つの借金の積は財産であり、財産と借金の積は借金である。空と借金、空と財産、空と空の積は、どれも空である。負の数どうしを掛けると正になるという、学校で多くの人がつまずく規則を、彼ははっきり書いていた。

ビンマール駅
ビンマール駅Wikimedia Commons Alonemayank · CC BY 3.0

ただ一か所、彼は答えにたどり着けなかった。ゼロで割ることである。空を空で割れば空である、と彼は書いたが、これはいまの数学では認められない。財産や借金を空で割ったものについては、空を分母とする分数のまま置いておく、というにとどめた。この問題はその後も考え続けられ、12世紀の数学者バースカラ2世は、数を空で割ったものは、何を足しても引いても変わらない限りない量であり、それは万物を生み万物を吸い込む無限の神のようだ、と書いた。

同じ本には、ほかにも後世に残る成果が詰まっている。二次方程式の解き方を、負の根の可能性も含めて示した。円に内接する四角形の面積を四辺の長さから求める公式は、いまも「ブラーマグプタの公式」と呼ばれる。x²−Ny²=1の形の方程式(のちのヨーロッパで「ペル方程式」と呼ばれるもの)について、一つの解から次々と新しい解を作り出す恒等式を見つけた。ヨーロッパでこの方程式が本格的に取り組まれるのは、17世紀のピエール・ド・フェルマーとその後の数学者たちを待たねばならない。

スリーマール王ジャヤセーナの宮廷で説教するスワヤンプラバースーリ
スリーマール王ジャヤセーナの宮廷で説教するスワヤンプラバースーリWikimedia Commons RJShashwat · CC BY 4.0

この本は論争の書でもあった。当時のインドの学者は、論敵の説を名指しで批判するのが常で、ブラーマグプタは先人のアーリヤバタの天文学をしばしば厳しく攻撃している。そして彼自身の誤りも、のちの学者たちに直された。ゼロ割るゼロをゼロとした規則は、その代表である。

彼の数学は、インドの外へ出て世界を変えた。8世紀の後半、インド北西部のシンドから来た使節が、アッバース朝のカリフマンスールの宮廷に天文書を持ち込んだと伝えられる。アラビア語に訳されたその本は『シンドヒンド』と呼ばれ、ブラーマグプタの著作かその流れをくむものだったと考えられている。9世紀、バグダードで学問を担ったフワーリズミーは、インド式の数の書き方と計算法を解説する本を書いた(その代数学についてはフワーリズミーの代数)。原本は失われたが、12世紀にラテン語に訳され、ヨーロッパの人々は九つの数字とゼロによる計算を「アルゴリズム」という名とともに学んでいった。

フワーリズミーの代数に関わる図版:Image-Al-Kitāb al-muḫtaṣar fī ḥisāb al-ğabr wa-l-muqābala
フワーリズミーの代数Wikimedia Commons Muḥammad ibn Musa al-Khwarizmi · Public domain

1202年、北アフリカのブジーで父の商売を手伝いながらこの計算法を身につけたレオナルド・フィボナッチは、『算板の書』で、九つのインドの数字と、アラビア人が「シフル」と呼ぶ記号0があれば、どんな数でも書ける、と紹介した。アラビア語の「シフル」(空っぽ)はラテン語で「ゼフィルム」となり、イタリア語を経て「ゼロ」になった。同じ語は英語の「暗号(サイファー)」の語源でもある。ローマ数字で帳簿をつけていた商人たちが位取りの算用数字に切り替えるには、さらに何世紀もかかった。

インドで現存する最も古い年代の確かなゼロの記号は、9世紀後半の中部インド、グワーリヤルの寺院の碑文に刻まれた小さな丸だとされる。年代に議論のある古い写本もあり、ゼロの記号がいつ生まれたかは、いまも研究が続いている。それでも、ゼロを他の数と同じ一つの数として扱い、負の数とともに計算の規則を書き下したのは、628年のブラーマグプタが最初だというのが、数学史の大方の見方である。

同じ時代のできごと

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