ピエール・アベラール
概要
ブルターニュの騎士の長男が、剣を捨てて論理学を選んだ。師を全員論破した。「然りと否」。普遍論争の「概念論」。三位一体の本で二度、異端に。ベルナールが敵。『我が災厄の歴史』。クリュニーの分院で死んだ。「私は知らない、と言えないなら、哲学者ではない」。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
アベラールとエロイーズAD1117年頃 · 去勢された本文
ピエール・アベラールは、1079年、フランス西部のブルターニュの、ナントに近いル・パレの村に、騎士ベランジェの長男として生まれた。騎士の家の長男は、家を継いで剣を取るのが当たり前だった。だが彼は、家督を弟たちに譲り、戦いの道具を論理学という武器に持ち替えた。自伝には、軍神マルスの宮廷よりも知恵の女神ミネルヴァの膝を選んだ、と書いている。彼は、討論の相手を求めて、各地の名高い教師のもとを渡り歩いた。

最初の師の一人は、言葉の意味を巡る大胆な説で知られたロスケリヌスだった。やがてパリに出たアベラールは、ノートルダムの学校で最も名高い教師シャンポーのギヨームに学んだ。当時の学問の大きな問題の一つは、「人間」や「動物」のような一般的な名前、つまり普遍が指すものは、個々の人間や動物とは別に、それ自体として存在するのか、という問題だった。6世紀のボエティウスが、古代の哲学者ポルフュリオスの書に付けた注釈で、この問いを答えずに残していた。ギヨームは、普遍は実在し、個々のものの中にまるごと同じ本質として宿っていると説いた。若いアベラールは、それでは別々の人間がすべて同じ一つのものになってしまうと、討論で師を追い詰めた。ギヨームは説を改めざるを得なくなり、名声はアベラールに移った。彼は、普遍とは物そのものではないが、ただの音声でもなく、多くのものについて述べられる言葉の意味のあり方だと考えた。この立場は、のちに概念論とも唯名論の一種とも呼ばれ、どう分類するかは研究者の間でも意見が分かれる。
1113年ごろ、神学を学ぶためにランの町の老大家アンセルムスを訪ねたが、彼はこの師を、葉ばかりよく茂って実のならない木のようだと評した。周りの学生に挑まれると、難しいとされる旧約聖書のエゼキエル書の講義を、ほとんど準備もせずに翌日から始めて評判をとった。パリに戻った彼は、ノートルダムの学校の教師となり、ヨーロッパの各地から学生が押し寄せた。後のパリ大学の成立が生まれる土壌は、こうした教師と学生の熱気の中で育った。

名声の絶頂の1110年代の末、30代後半のアベラールは、ノートルダムの参事会員フュルベールの姪で、学識で知られた若いエロイーズ(エロイーズ)の家庭教師になり、二人は恋に落ちた。子が生まれ、ひそかに結婚したが、怒ったフュルベールの手の者に夜襲われ、アベラールは去勢された。二人はそれぞれ修道院に入った。この恋と、のちに交わされた往復書簡については、アベラールとエロイーズに詳しい。
パリの北のサン・ドニ修道院の修道士となったアベラールは、そこでも争いを起こした。修道院が守護聖人として崇めるサン・ドニは、使徒パウロに教えを受けたアテナイのディオニュシオスと同じ人物だと信じられていたが、彼は古い記録を挙げて、それは別人だと指摘したのである。修道士たちは激怒した。1121年、ソワソンの教会会議は、三位一体を論じた彼の書を異端の疑いありとして、彼自身の手で火に投じさせた。屈辱を受けた彼は、シャンパーニュの人里離れた土地に小さな庵を結んだ。だがその噂を聞いた学生たちが集まり、周りに小屋を建てて住みつき、そこは学びの場になった。彼はこの庵を、聖霊を意味する「パラクレ(慰め主)」と名づけた。

1125年ごろ、彼は故郷ブルターニュの海辺の修道院サン・ジルダの院長に迎えられたが、荒れた修道士たちを正そうとして憎まれ、杯に毒を盛られ、命を狙われたと自伝に書いている。パラクレの庵は、修道院を追われたエロイーズと修道女たちに譲った。1132年ごろ、彼は自らの苦難を振り返る『災厄の記』を書いた。中世には珍しい、自分の内面を語る自伝で、そこで彼は、自分の災厄は自分の傲慢と欲から来たと認めている。
アベラールの最も大きな仕事は、考える方法を作ったことにある。著書『然りと否』では、158の神学の問いについて、聖書や教父たちの互いに食い違う言葉を、賛成と反対の両方に並べてみせた。権威ある言葉どうしの矛盾を隠さずに示し、言葉の使い方や文脈を調べて、それを解きほぐせと説いたのである。序文には、疑うことによって私たちは探究に至り、探究によって真理をつかむ、と書かれている。問いを立て、賛否の論拠を並べ、それを吟味して答えを出すという形は、のちのスコラ学の方法の型となり、トマス・アクィナスの『神学大全』にまで受け継がれた。倫理学の書では、罪は行いそのものではなく、悪と知りながらそれに心が同意することにあると論じ、行いの結果より心の意図を重んじる考えを示した。

1130年代、彼は再びパリのサント・ジュヌヴィエーヴの丘で教え、変わらず多くの学生を集めた。だが、信仰の神秘にまで論理を持ち込む彼の姿勢を、当代随一の宗教家クレルヴォーのベルナールは危険視した。1140年、サンスの教会会議で、ベルナールは彼の著作から誤りとされる箇所を並べて告発した。アベラールは弁明せずにローマの教皇に訴えると言って会議を去ったが、教皇インノケンティウス2世は彼を有罪とし、沈黙を命じた。
ローマへ向かう途中、病み疲れた彼を迎え入れたのは、クリュニー修道院の創立の院長ピエール尊者だった。院長は教皇に取りなし、ベルナールとの和解を整え、アベラールは修道院で静かな日々を過ごした。1142年4月21日、彼はクリュニーの分院であるシャロン・シュル・ソーヌ近くのサン・マルセル修道院で亡くなった。62歳ほどだった。ピエール尊者は、遺体をひそかにパラクレのエロイーズのもとへ送り届け、彼女への手紙で、アベラールを私たちのソクラテス、プラトン、アリストテレスと讃えた。エロイーズは1164年に亡くなり、彼の隣に葬られた。19世紀のはじめ、二人の遺骨はパリのペール・ラシェーズ墓地に移され、いまも恋人たちが訪れる。

アベラールは、傲慢で論争好きで、敵の多い人だった。それでも、権威ある言葉をうのみにせず、理性によって問い続けることを学問の柱に据えた彼は、20世紀の歴史家ジャック・ル・ゴフから、中世ヨーロッパの最初の知識人の一人と呼ばれている。