できごと

純正食品薬事法

Pure Food and Drug Act
AD1906年6月30日
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドメキシコスペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国ニカラグアホンジュラスグアテマラAD1906年6月30日ワシントンD.C.
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1906年6月30日の版図を描いています(11勢力)。

概要

瓶に何が入っているか、誰も保証していなかった。乳児用の鎮静剤にはアヘンが入り、牛乳にはホルマリン、肉には亜硫酸が入っていた。農務省の化学者ハーヴェイ・ワイリーは、志願した若い職員に防腐剤入りの食事を摂らせ、体調の変化を記録した。新聞が毒物班と呼んだ。同じ年、シンクレアの小説『ジャングル』が食肉工場の内情を描いて反響を呼び、法が通った。表示の義務と、有害物の禁止。後の食品医薬品局につながる。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

ハーヴェイ・ワイリーAD1844年10月18日–AD1930年6月30日 · 調べた

本文

二十世紀の初めのアメリカでは、瓶や缶に何が入っているかを、誰も保証していなかった。牛乳は水で薄められ、白く見せるためにチョークが混ぜられ、傷みを隠すためにホルマリンが加えられることさえあった。肉には色の悪さをごまかすために亜硫酸の塩が使われ、パンは明礬で白くされ、茶や香辛料には色を付けた砂や木の粉が混ぜられた。菓子の鮮やかな色には、鉛や銅や水銀の化合物が使われていた。

薬はさらにひどかった。いわゆる売薬は「特許薬」と呼ばれたが、特許を取っていたのは名前や瓶の形くらいで、中身は秘密だった(万能薬の時代)。売薬は新聞広告の最大の顧客で、がんや結核が治ると堂々とうたっていた。その多くは、色を付けた水とアルコールにすぎなかった。もっと危ないものもあった。歯が生えるときにぐずる赤ん坊のための鎮静シロップには、モルヒネとアルコールが入っていた。赤ん坊はたしかに静かになったが、そのまま目を覚まさないこともあった。咳止めにはアヘンやヘロイン、クロロホルムが使われていた。

ハーヴェイ・ワイリーの肖像
ハーヴェイ・ワイリーWikimedia Commons Harris & Ewing, photographer · Public domain

この状態を変えようと、長年声を上げてきたのが、農務省の化学局長ハーヴェイ・ワイリー(1844〜1930年)である。インディアナの農家に生まれ、医学と化学を学んだワイリーは、1883年に農務省の化学局長となり、食品に混ぜ物が使われている実態を調べ続けていた。だが、食品業界の抵抗は強く、法律を作る試みは何度も議会でつぶされた。

1902年、ワイリーは一つの実験を始めた。志願した若い男性の職員十二人を集め、農務省の建物の地下に作った食堂で、毎日の食事をすべて提供する。そこに、当時食品の保存に使われていたホウ砂やサリチル酸、安息香酸ナトリウム、ホルムアルデヒドなどを、量を少しずつ増やしながら混ぜていく。志願者の体重や体温、脈拍を毎日量り、尿や便を調べて、体の変化を記録した。参加の条件は健康であることと、何が起きても政府を訴えないと誓うことだった。

新聞はこの若者たちを「毒物班」と名づけ、その様子を競って報じた。ワイリー自身はこの呼び名を嫌ったが、世論の関心を集めたのはまさにこの名だった。毒物班を歌った戯れ歌まで流行した。いまの基準から見れば、この実験には倫理の上でも科学の上でも問題が多い。危険についての説明は十分ではなく、比べるための対照の集団もなかった。だが、自分の食卓に何が混ぜられているのかという問いを、世間に突きつける力は大きかった。

同じころ、雑誌の記者たちも動いていた。1905年、サミュエル・ホプキンズ・アダムズは雑誌『コリアーズ』に「アメリカの大いなる詐欺」と題する連載を書き、売薬の中身を分析して公表した。広告に「この薬で治った」と証言を寄せた人々の中に、すでにその病で亡くなった人がいたことも明らかにした。

決定打は一冊の小説だった。1906年2月、作家アプトン・シンクレアが『ジャングル』を出版した。シンクレアはシカゴの食肉工場に七週間通って内情を調べ、社会主義の立場から、移民労働者の悲惨な暮らしを描こうとした。だが読者が衝撃を受けたのは、労働者の境遇よりも、肉の扱われ方のほうだった。病気の牛の肉、ネズミの混じった挽き肉、そして加工の釜に落ちた労働者の話。最後の話は事実として確認されていないが、反響はすさまじかった。シンクレアは後に、自分は大衆の心臓を狙ったのに、間違ってその胃を撃ってしまった、と語っている。

大統領セオドア・ルーズヴェルトは独自の調査団をシカゴに送り、その報告は小説の主な指摘を裏付けた。食肉の輸出にも響くことを恐れた業界も、もはや規制に抵抗しきれなくなった。1906年6月30日、ルーズヴェルトは純正食品薬事法に署名した。同じ日には、食肉の検査を定める法律にも署名している。

法律が定めたのは、混ぜ物をした食品や薬を売ること、そして中身を偽って表示することの禁止だった。さらに、アルコール、モルヒネ、アヘン、コカイン、ヘロイン、大麻など、決められた危険な成分を含む場合には、ラベルにそれを書くことが義務づけられた。入れてはいけない、ではなく、入っているなら書け、という考え方である。

この法律には大きな穴もあった。薬の効き目については何も定めていなかった。1911年、連邦最高裁は、がんが治るとうたっていても、成分の表示が正しければこの法律には違反しないと判断した。議会は翌年に法を改めたが、わざと欺く意図があったことを証明しなければならず、取り締まりは難しかった。安全かどうかを売る前に審査する仕組みもなかった。害があることを政府の側が証明しなければならないのである。化粧品や医療機器は対象の外で、取り締まる役所の予算も人員も乏しかった。

ワイリー自身は、法の運用をめぐって孤立していった。彼は人工甘味料のサッカリンや保存料の安息香酸ナトリウムも禁じるべきだと主張したが、サッカリンを愛用していたルーズヴェルトは、サッカリンが体に悪いと言う者は愚か者だと言い放ったと伝えられる。ワイリーの判断を見直す専門家の委員会が作られ、彼の主張は次々に覆された。1912年、ワイリーは役所を去り、その後は家庭向けの雑誌『グッド・ハウスキーピング』で、食品や日用品を試験して消費者に伝える仕事を続けた。

1906年の法律を運用する部署は、のちに農務省の化学局から独立し、1930年に食品医薬品局と名を改めた。1937年、甘い溶剤に有毒なジエチレングリコールを使った水薬で百人を超える人が死ぬ事件が起き(エリキシル・スルファニルアミド事件)、翌1938年の新しい法律で、売る前に安全性を示すことが初めて求められた。1962年には、ヨーロッパを中心に起きたサリドマイド禍を受けて、効き目を証明することも義務づけられた。入っているものを書け、から、安全だと示せへ、そして効くと示せへ。今日の薬と食品の規制の骨組みができあがるまでに、半世紀あまりかかった。その出発点に、地下の食堂で毒入りの食事をとった十二人の若者と、胃を撃ってしまった一冊の小説があった。

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