韓愈
概要
仏舎利を宮中に迎える皇帝に「仏骨を論ずる表」を出して、潮州に流された。古文を復興し、儒教の道統を立てた。朱子学は、この人から始めることが多い。潮州でワニに文を送って追い払ったと伝わる。
所属
唐関わったできごと(1)
韓愈「論仏骨表」AD819年 · 上表本文
字は退之。768年、河南の河陽(いまの河南省孟州)に生まれた。一族の古い本籍とされる昌黎の名を取って、韓昌黎とも呼ばれる。3歳で父を亡くし、ずっと年上の兄韓会に引き取られた。その兄も、韓愈が10歳を過ぎたころ、流された先の嶺南の韶州で死んだ。兄嫁の鄭氏が幼い韓愈と兄の遺児を連れて棺を北へ運び、以後、女手で二人を育てた。韓愈は後年、この嫂の死に際して喪に服し、育ての恩を文に書いている。

貧しい家の秀才にとって、道は科挙しかなかった。進士の試験に三度落ち、792年、四度目で及第した。25歳(数え)。しかし官に就くための吏部の試験にはさらに三度落ちた。宰相に三度続けて手紙を書き、自分を用いるよう訴えたが、返事はなかった。その後、地方の節度使の幕僚として働き、802年に都の四門博士となった。
803年、監察御史に任じられたが、その冬に関中の旱魃で民が飢えているのに税の取り立てが止まないことを上奏し、陽山(いまの広東省)の県令に流された。都の長官李実の機嫌を損ねたためとも言われる。人に言いにくいことを言い、その代価を払う。韓愈の生涯はこの型を何度も繰り返す。

文章の上で、彼は時代の流れに逆らった。六朝から唐にかけて、文章は四字句と六字句を対にして並べる駢文が主流で、音の調子と飾りの美しさが重んじられた。韓愈はこれを捨て、先秦や漢の時代のような、言いたいことを素直に述べる散文に戻ろうとした。これを古文という。文章は道を伝えるためのものだ、という考えがその根にあった。友人の柳宗元とともにこの運動を進め、二人はのちに「唐宋八大家」の筆頭に数えられる。
「原道」では、儒教の道が堯・舜から禹、湯王、文王、武王、周公、孔子を経て孟子へ伝えられ、孟子の死後に途絶えたと説いた。孟子をこれほど高く置いたのは、当時としては新しい見方だった。自分がその道を継ぐとは書いていないが、後世そう読まれた。この「道統」の考えは、のちに朱熹(朱子)が受け継いで体系づける(朱子学の成立)。宋の儒学の源流を語るとき、まず韓愈の名が挙がるのはこのためである。
「師説」では、学ぶ者には必ず師がいるものだ、道のあるところに師がいる、弟子が師に劣るとは限らず、師が弟子より賢いとも限らない、と書いた。家柄のよい士人が人に教わるのを恥じる風潮への批判だった。韓愈自身、若い文人たちを集めて世話をしたので、「韓門の弟子」と呼ばれる一群ができた。
819年、憲宗が法門寺の仏舎利(釈迦の指の骨とされるもの)を宮中に迎え、都じゅうが熱狂して、身を焼いたり財産を投げ出したりして供養する者が出た。韓愈は「仏骨を論ずる表」を出し、仏はもとは夷狄の人であり、その骨は汚れたものだから水火に投じるべきだと説き、仏を信じた歴代の皇帝は短命だったとまで書いた(韓愈「論仏骨表」)。憲宗は激怒して死罪にしようとしたが、宰相の裴度らがとりなし、南の果ての潮州の刺史に左遷された。
都を出て藍田関で雪に阻まれたとき、追ってきた兄の孫の韓湘に与えた詩が残る。雲は秦嶺に横たわって家はどこにあるのか、雪は藍関を埋めて馬は進まない。そして、お前が遠く来たのはきっと私の骨を瘴気の川辺で拾うためだろう、と結んだ。潮州では、川の鰐が家畜を襲うと聞き、鰐に立ち退きを命じる「鰐魚を祭る文」を書いて川に投じた。伝説では、鰐はその後去ったという。わずか8か月ほどの在任のあいだに、土地の若者を教える学校を興したと伝わる。
翌年、都に呼び戻され、822年には反乱を起こした鎮州の軍にわずかな供だけで乗り込み、言葉で説いて兵を収めさせた。京兆尹、吏部侍郎を歴任し、824年に長安で死んだ。数えで57歳。諡は「文」で、韓文公と呼ばれる。
詩人としても一家をなした。奇抜な言葉と硬い響きを好み、平明な白居易の詩とは対照的だった。同時代の人々が李白と杜甫の優劣を論じるのを笑って、「李杜の文章在り、光焔万丈長し」と二人をともに称えた詩も残る(唐詩の頂点)。
潮州の人々は彼を忘れなかった。潮州を流れる川は韓江、向かいの山は韓山と呼ばれるようになり、韓文公祠が建てられた。8か月いただけの役人の名が、川と山の名になったのである。宋の蘇軾は、潮州の韓文公廟のために碑文を書き、韓愈を「文は八代の衰えを起こし、道は天下の溺れるを済う」と称えた。六朝以来八つの王朝のあいだ衰えていた文章を立て直し、溺れかけた儒教の道を救った、という意味である。仏を退けた彼の主張がそのまま受け入れられたわけではないが、文章は道を語るためにあるという信念は、宋以後の中国の文章の背骨になった。