点字の考案

概要
ルイ・ブライユは3歳のとき、父の革細工の錐で目を突いて失明した。パリの盲学校の生徒だったころ、軍人シャルル・バルビエが「夜間文字」——暗闇で読める12点の符号——を持ち込んだ。ブライユは、指の腹で一度に触れる大きさが要ると考え、点を6つに減らした。縦3×横2。64通り。文字も、数字も、句読点も、そして楽譜も書ける。15歳で完成させた。盲人が自分で書けるようになった最初の体系である。学校が公式に採用したのは、彼の死の2年後だった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ルイ・ブライユAD1809年1月4日–AD1852年1月6日 · 考えた本文
ルイ・ブライユは1809年、パリの東40キロほどの村クーヴレで、馬具職人の家に生まれた。3歳のとき、父の仕事場で遊んでいて、革に穴を開ける錐で片目を突いた。傷は化膿し、炎症はもう一方の目にも広がって、5歳になるころには両目とも光を失った。村の司祭と教師に支えられて、彼は目の見える子どもたちと同じ学校に通い、耳で聞いて覚え、よい成績を取った。1819年、10歳のとき、奨学金を得てパリの王立盲青年学校に入った。
この学校は、1784年にヴァランタン・アユイが開いた、世界で最初の盲人のための学校である。アユイは、厚い紙にふつうのアルファベットの形を裏から押し出して浮き上がらせ、指でなぞって読ませる方法を考えた。目の見えない子どもが本を読めるようにした画期的な工夫だったが、問題も多かった。指で文字の輪郭を一つずつたどるので、読むのがひどく遅い。浮き出し文字の本は分厚く重く、作るのにも金がかかり、学校の蔵書はわずか十数冊だったと伝えられる。そして何より、生徒は自分で書くことができなかった。浮き出し文字を作るには印刷の設備が要る。読めても書けないなら、それは半分の読み書きでしかなかった。

1821年、砲兵の退役大尉シャルル・バルビエが学校を訪れ、自分の考えた点の文字を持ち込んだ。紙に打った凸点の組み合わせで言葉を表す方式で、暗闇で灯りをつけずに読めることから「夜間文字」とも呼ばれる。もとは軍の伝令のために考えたとされるが、軍では使われなかった。バルビエはこれを盲人の教育に役立てようとした。
生徒たちはこの文字に飛びついた。点なら、先のとがった道具で紙の裏から押すだけで、自分で書ける。だが欠点もあった。バルビエの符号は縦6点、横2列の最大12点を組み合わせたもので、一つの記号が指の腹より大きい。一度に触れて読み取れず、指を上下に動かして探らなければならない。また、フランス語の綴りではなく音を表す仕組みだったので、正しい綴りが書けず、句読点も数字も無かった。
まだ12歳ほどだったブライユは、こうした弱点に気づいたと伝えられる。彼は何年もかけて、この点の文字を作り直した。行き着いたのが、縦3点、横2列の6点である。理由は単純で、指先の腹を動かさずに一度で触れられる大きさだからだ。6つの点のそれぞれに「ある」か「ない」かがあるので、組み合わせは2の6乗で64通りになる(点が一つも無い場合を除けば63通り)。これでアルファベットの26文字に、アクセントの付いた文字、句読点、数字まで表せる。数字は、アルファベットの最初の10文字の前に「数符」と呼ばれる記号を置いて表した。1824年、ブライユが15歳のころ、この体系はほぼ形になっていた。
ブライユは音楽も学んでいた。オルガンとチェロを弾き、のちにパリの教会でオルガン奏者を務める腕前だった。彼にとって、楽譜を書けることは欠かせなかった。6点の組み合わせは、音の高さや長さ、休符を表す楽譜にも使えるように作られた。1829年、20歳のとき、彼は最初の解説書『点を用いて言葉、楽譜、平唱を書き表す方法』を出版した。1837年の改訂版で、いま使われている形がほぼ定まる。1839年には、点を並べてふつうの文字の形を描き、目の見える人とも手紙をやりとりできる方式も考案している。

それでも学校は、すぐには点字を正式な文字として認めなかった。目の見える教師には点字が読めないからである。生徒の書いたものを教師が確かめられない。目の見える人のために作られた教材がそのまま使えない。盲人だけの文字を作れば、盲人が社会から切り離されるという反対もあった。1840年ごろ、新しい校長は学校での点字の使用を禁じ、点字で書かれたものが処分されたとも伝えられる。生徒たちは隠れて使い続けた。点字なら蝋燭も要らないので、夜の寝室でも読み書きができた。
風向きが変わったのは1844年である。新しい校舎の開所式で、教師が来賓の前で、生徒に点字を書かせ、別の生徒に読み上げさせて、その速さと正確さを示した。学校はやがて点字を黙認するようになる。1854年、学校は点字を正式に採用した。ブライユが1852年1月に43歳で結核のために世を去ってから、2年後のことだった。

点字は国境を越えて広がった。イギリスでは1868年、自らも視力を失った医師トマス・アーミテージらが盲人のための協会を作り、点字を推し進めた。アメリカでは、点の並べ方の違う方式がいくつも競い合い、「点字戦争」と呼ばれる論争が半世紀近く続いた末、1932年に英語の点字の統一が決まった。
日本では、東京盲唖学校の教員だった石川倉次らが、6点にかなの五十音を割り当てる工夫を重ね、1890年(明治23年)11月1日、学校の会議で石川の案が採用された。この日はいま「点字の日」になっている。日本の盲人教育は、その10年あまり前に開かれた京都盲唖院などから始まっていた。いまでは中国語、アラビア語、ヒンディー語など、ほとんどの言語に点字の体系があり、数学や化学の記号、各国の楽譜も点で書かれている。

点字の何よりの意味は、目の見えない人が自分の手で書けるようになったことにある。紙と、点字を打つための板と、針のような道具さえあれば、誰の助けも借りずに記録を取り、手紙を書き、本を写せる。のちにヘレン・ケラーも点字で学び、点字で書いた。読むことと書くことが一組になって、初めて読み書きは自分のものになる。
死後100年にあたる1952年、ブライユの遺骨は故郷クーヴレの墓地から、フランスの偉人を祀るパリのパンテオンへ移された。ただし両手の骨だけは、村の人々の願いで、故郷の墓に残された。

いま、音声の読み上げ技術が広まり、点字を読む人の割合は減っている。アメリカでは、視覚に障害のある子どものうち点字を学ぶのは1割ほどだという統計もある。一方で、点字を読める人のほうが、仕事に就いている割合も教育の水準も高いという調査もある。聞くことと、自分で読み書きすることは違うからだろう。エレベーターの階のボタンに、薬の箱に、駅の手すりに、6つの点はいまも並んでいる。