概要
シュヴァーベンのラウインゲン。パドヴァで学び、ドミニコ会に。ケルン、パリ(1245〜48年、教授。弟子にトマス・アクィナス)、ケルン(1248年、大学の元になる学院)。アリストテレスの全部に注釈した。植物、動物、鉱物を自分で観察した(「経験だけが確かにする」)。「普遍博士」。錬金術と魔術の噂。レーゲンスブルクの司教(2年で辞めた)。1277年、パリでアリストテレス主義が断罪されたとき、80歳近くで、弟子トマスを弁護しにパリへ行った。ケルンで死んだ。1931年、聖人、教会博士。
関わったできごと(1)
パリ大学の成立AD1200年頃 · 教授本文
1200年頃(1193年から1206年まで説がある)、シュヴァーベンのラウインゲン(ドナウ河畔)。騎士の家。パドヴァ大学(自由学芸、自然学)。1223年、ドミニコ会の第2代総長ヨルダヌス・フォン・ザクセンの説教を聞いて、入会した(叔父が止めた、と伝える)。ケルンで神学。ヒルデスハイム、フライブルク、レーゲンスブルク、シュトラスブルクで教えた。
1245年、パリ大学。神学の教授(ドミニコ会の講座)。ここで、トマス・アクィナス(20歳)が弟子になった。トマスは無口で大柄で、同級生に「シチリアの黙り牛」と呼ばれた。アルベルトゥスが「あなたたちはこの牛を黙り牛と呼ぶが、この牛が吼えるとき、その声は全世界に響くだろう」と言った、と伝える。
1248年、ケルン。ドミニコ会が新しい「大学(ストゥディウム・ゲネラーレ)」を置いて、アルベルトゥスが最初の教授。トマスが付いて行った。1254〜57年、ドイツ管区長(ドイツ中の修道院を、徒歩で回った。「靴のアルベルトゥス」)。1260年、レーゲンスブルクの司教(教皇の命令で。会は反対した。2年で辞めた。「私は、司教座より、書物がよい」)。1263〜64年、教皇の命で十字軍の説教。それからケルン。
著作。全38巻(ボルニェ版、1890〜99年)。アリストテレスの全著作に「注解」(正しくは、パラフレーズと補足。「アリストテレスの本をラテン人に理解させるため」)。論理学、自然学、天体論、気象論、動物論、植物論、鉱物論、霊魂論、形而上学、倫理学、政治学。ディオニュシオス・アレオパギテース、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』、聖書、神学大全。
自然の観察。『動物論』(26巻)。アリストテレスを訳しながら、自分で見たことを足した。ドイツの鳥、魚、昆虫。「私は、鷲の巣を自分で見に登った」。「蜘蛛が糸を出すのを観察した」。鯨、ビーバー、駝鳥。「実験(エクスペリメントゥム)だけが、このような事柄で確実性を与える。なぜなら、感覚に属する事柄については、三段論法では十分でないから」。『植物論』(7巻。植物学の中世で最良の本、と言われる。ブナの葉の形、樹液、接木、栽培)。『鉱物論』(アルプスの鉱山を見た。金属、宝石)。地理(「大地は球で、赤道の下にも人が住める」)、天文(月のクレーター、天の川)。
錬金術。彼の名で伝わる錬金術の本の多くは偽作。しかし本物の著作でも、金属の変成の可能性を論じている(当時の自然学として)。伝説。真鍮の「話す頭(アンドロイド)」を作って、トマス・アクィナスがうるさいので杖で壊した。ケルンの庭で、冬の日に、皇帝ウィレム(オランダ伯)のために花を咲かせた。「魔術師アルベルト」の名で、17世紀まで魔術書が出回った。
1277年、パリ司教タンピエが219命題を断罪した(アリストテレス主義、アヴェロエス主義。トマスの説も一部含まれた)。トマスは1274年に死んでいた。アルベルトゥス(75歳を超えていた)はケルンからパリへ行って、弟子を弁護した、と伝える。
1280年、記憶が衰えた(アルツハイマーだ、と現代の人が言う)。11月15日、ケルンで、椅子に座って死んだ。ケルンの聖アンドレアス教会の地下に、ローマの石棺に納められている。
「普遍博士(Doctor Universalis)」「大博士(Doctor Magnus)」。生前から「マグヌス(大)」と呼ばれた(姓ではない)。ダンテは『神曲』天国篇でトマスに「これが私の兄弟で師のケルンのアルベルト」と言わせている。
1622年、列福。1931年、ピウス11世が列聖と同時に「教会博士」に。1941年、ピウス12世が「自然科学者の守護聖人」に。ケルン大学の紋章に彼の像がある。