不確定性原理
概要
位置と運動量を同時に正確には測れない。Δx·Δp≥h/4π。測り方が下手なのではなく、自然がそうできている。ハイゼンベルクが23歳で、ヘルゴラント島の花粉症の療養中に行列力学を作り(1925年)、2年後、25歳でこれを書いた。ボーアの相補性と合わせて「コペンハーゲン解釈」。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、ボーアは「神に指図するな」と答えた。
場所
55.68°N 12.57°E · デンマーク
関わった人(2)
ヴェルナー・ハイゼンベルクAD1901年12月5日–AD1976年2月1日 · 書いたニールス・ボーアAD1885年10月7日–AD1962年11月18日 · 相補性本文
電子がいまどこにあり、どれだけの勢いで動いているか。その二つを、同時にいくらでも正確に知ることはできない。1927年3月、25歳のドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクがコペンハーゲンで書き上げた論文は、そう主張していた。位置のあいまいさと運動量(質量と速さの積)のあいまいさを掛け合わせた値は、ある決まった小さな数より小さくはできない。これが不確定性原理である。測る道具が粗いから分からないのではない。自然そのものが、そういうふうにできている、というのがその核心だった。
話は20世紀の初めにさかのぼる。1900年にプランクの量子仮説が出され、1905年にはアインシュタインが光は粒のように振る舞うと論じた(アインシュタインの奇跡の年)。1913年にはニールス・ボーアが、電子は原子核の周りの決まった軌道だけを回り、軌道を飛び移るときに光を出すという原子の模型を示した(ボーアの原子模型)。だがこの模型は、水素より複雑な原子をうまく説明できず、そもそも電子がなぜ決まった軌道だけを回るのかも分からなかった。古い物理学に新しい規則を継ぎ足すやり方は、1920年代の半ばには行き詰まっていた。

1925年6月、ゲッティンゲン大学の助手だった23歳のハイゼンベルクは、ひどい花粉症に苦しみ、北海に浮かぶ岩の島ヘルゴラントで2週間ほど療養していた。草木の少ないこの島で、彼は大胆な考えを突き詰めた。誰も見たことのない電子の軌道を考えるのはやめよう。実際に観測できるもの、つまり原子が出す光の振動数と強さだけを使って理論を組み立てよう。ある夜遅く、計算がうまくいくことを確かめたとき、彼は興奮で眠れず、夜明けの岩場に登ったと後に回想している。この考えは、師のボルンと若いヨルダンによって行列という数学の形に整えられ、「行列力学」となった。翌1926年には、オーストリアのシュレーディンガーが、電子を波として扱うまったく別の形の理論、波動力学を発表した。二つは見かけこそ違え、同じ答えを出すことがまもなく示された。量子力学の誕生である。
しかし、計算ができることと、それが何を意味するかを理解することは別だった。霧箱という装置の中では、電子が飛んだ跡が一本の筋として見える。ところが新しい理論には、電子の「道筋」に当たるものがどこにもない。この食い違いをどう考えればよいのか。

1927年の2月、ハイゼンベルクはコペンハーゲンのボーアの研究所にいた。この問題をめぐってボーアと連日議論を重ね、二人とも疲れ果てていた。ボーアがノルウェーへスキー休暇に出かけると、ハイゼンベルクは一人で考え続けた。彼の回想によれば、ある夜、研究所の裏の公園を歩きながら、前の年にアインシュタインから言われた言葉を思い出したという。何を観測できるかを決めるのは、理論のほうだ、という言葉である。霧箱に見えているのは、電子の正確な道筋ではなく、ぼんやりとした水滴の並びにすぎないのではないか。
彼は一つの思考実験を考えた。電子の位置を顕微鏡で見ようとすれば、電子に光を当てなければならない。位置を正確に知るには、波長の短い光を使う必要がある。だが波長の短い光ほど強い勢いを持っていて、当たった電子を弾き飛ばし、その運動量を変えてしまう。位置を細かく決めようとすればするほど、運動量はあいまいになる。逆もまた同じだ。この関係を理論から導くと、位置のあいまいさと運動量のあいまいさの積には、プランク定数で決まる下限があることが分かった。のちに数学的に整えられた形では、その下限はプランク定数を4πで割った値になる。エネルギーと時間のあいだにも、似た関係がある。

ハイゼンベルクがこの論文を急いで仕上げたころ、ボーアが休暇から戻ってきた。ボーアは原稿を読んで賛成しなかった。顕微鏡の議論の細部に誤りがあることを指摘し、さらに、問題の根は測定の乱れにあるのではなく、もっと深いところにあると考えていた。激しい議論の末、ハイゼンベルクは論文の最後に、ボーアの指摘を受けた追記を付け加えて発表した。二人の考えの違いは、その後も完全には埋まらなかったが、ボーアはこの年の9月、イタリアのコモで、自分の考えを「相補性」として発表する。電子や光は、ある実験では粒子として、別の実験では波として姿を現す。二つの姿は互いに相容れないが、どちらも欠かせない。どちらを見るかは実験の組み立てによって決まり、両方を同時に見ることはできない。
ボーアとハイゼンベルクの考えは、のちに「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるようになる。量子力学が教えてくれるのは、観測したときに何がどれだけの確率で見つかるかであって、観測していないときの電子の確かな姿ではない、というのである。

これに真っ向から反対したのがアインシュタインだった。彼は1926年にボルンへ宛てた手紙ですでに、神はサイコロを振らない、と確率的な理論への違和感を書いていた。1927年10月、ブリュッセルで開かれた第5回ソルヴェイ会議では、アインシュタインが朝食の席で量子力学の矛盾を突く思考実験を持ち出し、ボーアがその日のうちに反論を見つける、ということが毎日のように繰り返されたと伝えられる。ボーアがアインシュタインに、神に何をすべきか指図するのはやめたまえ、と言い返したという話も、ハイゼンベルクらの回想に残っている。
論争は二人の生涯を通じて続いた。1935年、アインシュタインは同僚のポドルスキー、ローゼンとともに、量子力学は自然を完全には記述していないと論じる論文を出した。この問いに実験で答えを出す道を開いたのは、1964年に北アイルランド出身の物理学者ベルが導いた不等式である。1982年のフランスのアスペらの実験をはじめ、その後の数々の実験の結果は、量子力学の予言のほうに軍配を上げた。2022年のノーベル物理学賞は、こうした実験を重ねた3人に贈られている。
ハイゼンベルクは量子力学を作り上げた功績で、1932年度のノーベル物理学賞を受けた。不確定性原理は、のちに「観測すれば対象が乱れる」という意味に広く誤解されて、物理学の外でもさまざまに引用されるようになった。だがこの原理が言っているのは、もっと根本的なことだ。ミクロの世界の粒子は、位置と勢いを同時にはっきりとは持っていない。確かな道筋を描いて動く粒という、ニュートン以来の物の見方そのものが、ここで限界を迎えたのである。