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Event / できごと

最初の心臓移植

The first heart transplant
AD1967年12月3日
重要度 4

概要

ケープタウンのフルート・スキュール病院。交通事故で脳死になった25歳の女性デニス・ダーヴァルの心臓が、55歳のルイス・ワシカンスキーに移された。執刀はクリスチャン・バーナード。手術は成功し、患者は18日後に肺炎で死んだ。免疫抑制のために抵抗力を落としていた。世界が沸き、そして「死とは何か」が問われた。心臓が止まった時ではなく脳の機能が失われた時を死とする定義が、この後、各国で整えられていく。

場所

ケープタウン
-33.92°N 18.42°E · 南アフリカ

関わった人(1)

クリスチャン・バーナードAD1922年11月8日–AD2001年9月2日 · 執刀した

本文

臓器移植の技術は、20世紀の前半に少しずつ整った。血管の縫合(アレクシス・カレル、1902年)。人工心肺(ジョン・ギボン、1953年)。腎臓の移植(1954年、一卵性双生児の間で成功。ジョセフ・マレー)。

心臓は、最後に残った。理由は二つある。技術と、定義。

**技術**。心臓を止めて取り出し、別の体で動かす。人工心肺で全身の循環を保ちながら行う。1960年代、スタンフォードの**ノーマン・シャムウェイ**とリチャード・ロワーが、犬で300例以上の実験を重ね、手技を完成させていた。

**定義**。心臓を提供するには、心臓が動いているうちに取り出さなければならない。しかし、当時のほとんどの法律で、死は「心臓の停止」だった。動いている心臓を取り出すことは、殺人になる。

アメリカでは、この法的な壁のために、シャムウェイは踏み切れなかった。

**ケープタウン**。1967年12月2日、土曜日。

デニス・ダーヴァル、25歳。菓子を買いに行った帰り、母とともに車にはねられた。母は即死。彼女は頭部を損傷し、フルート・スキュール病院に運ばれた。脳の機能は回復しないと判断された。

父エドワード・ダーヴァルが、提供に同意した。彼は後に語っている。「娘が助からないなら、その心臓を、誰かのために使ってほしいと思った」。

**受け手**。ルイス・ワシカンスキー、55歳。リトアニア生まれのユダヤ人の食料品商。糖尿病と、三度の心筋梗塞で心不全。余命は数週間と言われていた。

**手術**。1967年12月3日、午前1時から6時。執刀**クリスチャン・バーナード**、45歳。30人の手術チーム。

(バーナードの弟マリウスも、チームの一員だった。また、心肺装置を操作したチームの中心の一人ハミルトン・ノーキは、黒人であるという理由で、当時の南アフリカの制度上、正当な評価を受けられなかった。後に彼の役割が再評価された。)

ダーヴァルの心臓が止まるのを待ち(バーナードは後に、弟が塩化カリウムを注射して停止させたと書いている。この点は長く議論の的になった)、取り出し、冷やして運び、ワシカンスキーの胸に縫い込んだ。

電気ショック。心臓が動き出した。人工心肺を外した。

**その後**。ワシカンスキーは目を覚まし、話し、食べ、新聞を読んだ。世界中の記者が病院に押しかけた。

拒絶反応を抑えるため、強い免疫抑制(当時はアザチオプリンとステロイド、そして放射線)が使われた。抵抗力が落ちた。

18日目、肺炎で死んだ。

**世界の反応**。

バーナードは一夜で世界的な有名人になった。『タイム』の表紙。各国の元首との面会。ローマ教皇。彼は美男で、話が上手く、社交界の花形になった。

同時に、批判もあった。技術を作ったのはシャムウェイのチームであり、バーナードはそれを学びに行った側だった。彼が最初になれたのは、南アフリカに「動いている心臓を取り出す」ことを妨げる法がなかったからでもある。

そして、アパルトヘイトの国から出た偉業であることが、複雑な受け止められ方をした(バーナード自身は、病院の人種別の区分に反対し、患者を人種で分けずに扱ったと主張している。1971年には黒人の患者に心臓移植を行った)。

**熱狂と、その後の停滞**。

1968年の1年間に、世界で100例以上の心臓移植が行われた。大半の患者が、数週間から数か月で死んだ。

熱が冷めた。1970年代、心臓移植を行う施設はほとんどなくなった。

シャムウェイのスタンフォードだけが、続けた。彼は拒絶反応の診断法(心筋生検)を確立し、免疫抑制を細かく調整した。

**転機**。1972年、スイスの研究者ジャン=フランソワ・ボレルが、土壌の真菌から**シクロスポリン**を見つけた。免疫の一部だけを狙って抑える薬。1983年に承認された。

生存率が跳ね上がった。1980年代から、心臓移植は再び標準的な治療になった。

**脳死**。1968年8月、ハーバード大学医学部の特別委員会が、「不可逆的昏睡」の定義を発表した。これが、脳死を死とする議論の出発点になった。

各国が法を整えていった。イギリス1976年、アメリカは州ごと(統一死亡判定法1981年)、そして日本は1997年の臓器移植法まで、この定義を法に持たなかった。

**バーナード**。関節リウマチで手が使えなくなり、1983年に外科を引退した。以後、講演と著述と、そして若返りのクリームの宣伝で暮らした。2001年、キプロスで喘息の発作で死んだ。78歳。

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