将棋の持ち駒
概要
チェスも象棋も、取った駒は盤から消える。日本の将棋だけが、取った駒を自分のものとして打ち直せる。この規則がいつ生まれたかは分かっていない。16世紀の文献に現れる。駒に文字だけを書いて色で敵味方を分けないので、持ち駒が成立した、という説明がある。結果として、駒の総数が減らず、終盤ほど盤が複雑になる。引き分けが極端に少ない。取った駒を使うという発想が、他のどの系統にも現れなかったのは、いまも不思議とされる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
インドで生まれた盤上の遊びは、西へ伝わってチェスになり、東へ伝わって中国の象棋や朝鮮の将棋、東南アジアの遊びになった(チャトランガとチェスの伝播)。日本の将棋がどの道を通って来たのかは、はっきりしていない。タイのマークルックのような東南アジアの遊びを経たという説、中国の象棋を経たという説、その両方という説がある。伝わった時期は、平安時代の10世紀から11世紀ごろとされる。
いま見つかっている最古の将棋の駒は、1993年に奈良の興福寺の境内から出土したものである。一緒に出た木簡に天喜6年(1058年)の年号が書かれていた。駒は木を五角形に削り、墨で字を書いたもので、玉将、金将、銀将、桂馬、歩兵のほか、いまは使われない酔象という駒も含まれていた。同じころの文献にも将棋の名が見え、平安末から鎌倉初めの事典『二中歴』には、「大将棋」と「小将棋」の駒の並べ方が記されている。

中世の日本では、将棋は大きくなり続けた。15×15の盤に130枚の駒を並べる大将棋、12×12の盤で強力な「獅子」が暴れる中将棋。さらに19×19の摩訶大大将棋、25×25に354枚の泰将棋と広がり、江戸時代には36×36の盤に804枚を並べる大局将棋まで考え出された。ここまで来ると一局に何日もかかり、実際にどこまで遊ばれたのかは疑わしい。遊びというより、駒を分類して体系を作る楽しみの産物だったのだろう。そうした中で、9×9の盤に一人20枚の駒を並べる小さな将棋が、16世紀ごろまでに標準になっていく。
その小さな将棋には、他のどの系統にも無い規則があった。取った相手の駒を自分の持ち駒にして、好きなときに盤上の空いた所へ打てるのである。チェスでも象棋でも、取られた駒は盤から消えるだけだ。この規則がいつ、なぜ生まれたのかは分かっていない。16世紀の記録にはすでにこの規則で指された将棋が現れるが、それより前のことを示す確かな史料は無い。

説明はいくつか試みられている。一つは駒の形である。日本の将棋の駒は、五角形の木片に字を書いただけで、色で敵味方を分けない。尖った先がどちらを向いているかで、どちらの駒かが決まる。チェスや象棋は駒の色で所属が決まるので、取った駒を自分の駒として使うことはできない。日本の駒なら、向きを変えるだけで味方にできる。ただし、これは持ち駒が「可能だった」理由であって、「なぜそうしたか」の説明にはならない。
二つ目は、中世の戦のありさまである。日本の合戦では、敗れた側の武士が勝った側に仕えることが珍しくなかった。主君を替えることは必ずしも恥ではなく、戦国時代の武将の多くが何人もの主に仕えている。捕らえた兵を自軍に組み込む社会の実態が、規則に映し出された、という説明である。魅力的だが、証明はできない。三つ目は、そのほうが面白かったから、という単純な説明である。駒が減らないので終盤が単調にならず、逆転が起こり、引き分けにもなりにくい。

実際、この規則は将棋を独特のゲームにした。チェスでは終盤になるほど駒が減り、局面は単純になる。だから終盤の理論が整えられ、残りの駒が少なければ、コンピューターがすべての局面の最善手を調べ尽くしている。将棋では逆に、終盤ほど駒が盤上と持ち駒に散らばり、局面は複雑になる。ありうる局面の数は、チェスがおよそ10の47乗、将棋が10の70乗前後、囲碁(囲碁)が10の171乗ほどと見積もられている。持ち駒の組み合わせだけ、同じ盤面でも状態が分かれるからである。
引き分けが極めて少ないのも、持ち駒のおかげである。プロの公式戦で、同じ局面を繰り返す千日手や、互いの玉が敵陣に入って決着がつかない持将棋は、合わせても数パーセントにすぎない。チェスの一流同士の対局では、引き分けが半分を超えることも珍しくない。必ずといってよいほど勝負がつくことは、見る側にとっての面白さにもつながっている。終盤は駒の損得より速度、という将棋の格言は、持ち駒があるからこそ生まれた。一手の違いで、詰むか詰まないかが決まる。

江戸幕府は、将棋と囲碁を保護した。将棋には大橋家、大橋分家、伊藤家の三家があり、囲碁の家元とともに幕府から禄を受けた。毎年、江戸城で将軍の前で指す御城将棋が行われ、その日にちなんで11月17日が、いまの「将棋の日」になっている。将棋の家元の最高位が名人で、家の世襲や推挙で受け継がれた。盤上の遊びが公の職業になったのは、世界でも珍しい。江戸時代には、玉を詰める手順そのものを鑑賞する詰将棋も独立した芸術になり、伊藤宗看の『将棋無双』(1734年)や、伊藤看寿の『将棋図巧』(1755年)のような作品集が残された。
近代に入ると、将棋は新聞に棋譜が載る大衆の娯楽になった。1935年には世襲だった名人の位を対局の成績で決める制度が始まり、1937年、木村義雄が実力で選ばれた初めての名人になった。21世紀には、コンピューターが人間に追いつき、追い越した。2013年、プロ棋士とソフトの団体戦でソフトが勝ち越し、2017年には現役の名人がソフトに敗れた。囲碁でアルファ碁が勝った翌年である。以後、プロ棋士がソフトを研究に使うのが当たり前になり、その世代を代表する藤井聡太は、2023年に史上初めて八つのタイトルをすべて手にした。

インドで生まれ、いくつもの土地を経て日本にたどり着いた盤上の遊びは、取った駒を打ち直すというたった一つの規則によって、他のどの系統とも違うゲームになった。その規則を、いつ、誰が、なぜ取り入れたのかは、いまも分かっていない。