できごと

花の戦争

Flower Wars
AD1450年頃
年に諸説あり重要度 3
北米東部の狩猟採集民平原のバイソン狩猟民アマゾンの狩猟採集民高原の漁労・狩猟採集民神聖ローマ帝国ミシシッピ文化北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民砂漠の狩猟採集民アステカアンデスの諸国と首長制社会カリブの狩猟採集民タイノチムー王国イロコイ連邦マヤの諸都市国家サポテカミシュテカCaloosahatchee cultureureAD1450年頃テノチティトラン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1450年頃の版図を描いています(18勢力)。

概要

アステカとトラスカラが、生贄のための捕虜を取るために、決められた場所と日に戦った。殺さずに捕える。「花のように美しい戦い」。それで神に太陽を回させた。トラスカラは滅ぼされず、恨みを溜め、1519年にコルテスに兵を出した。

場所

テノチティトラン
19.43°N -99.13°E · メキシコ・メキシコシティ

本文

1450年代のはじめ、メキシコ中央高原は大きな飢饉に襲われた。アステカの記録によれば、霜と雪が作物を枯らし、雨が降らない年が続き、人々は食べ物を求めてさまよい、我が子を売る者まで出たという。飢饉がとくにひどかったのは1454年、アステカの暦で「一の兎」の年だった。王はモクテスマ1世で、その傍らには、何代もの王に仕えた実力者トラカエレルがいた。

アステカの人々は、太陽や雨の神々が人の血と心臓を糧にしていると考えていた。神々に糧を捧げなければ、太陽は空を巡るのをやめ、世界は終わる。飢饉は、神々が飢えている印と受け取られた。16世紀のスペイン人の修道士ドゥランが先住民の記録をもとに書いた歴史によれば、トラカエレルは、神々に捧げる生贄を安定して手に入れるために、近くの国々と定期的に戦うことを考え出した。遠い国から捕虜を連れてくるのでは手間がかかる。近くに、いつでも戦える相手を置いておけばよい、というのである。これが、ナワトル語で「ショチヤオヨトル」、花の戦争の始まりとされる。

Lombards Museum 135
Wikimedia Commons Lombards Museum · CC BY 3.0

相手に選ばれたのは、首都テノチティトラン(テノチティトランの建設)の東、火山の向こうのプエブラ・トラスカラの盆地にあるトラスカラ、ウェショツィンコ、チョルーラなどの国々だった。花の戦争は、あらかじめ日と場所を決め、ほぼ同じ数の兵を出し合って戦ったと伝えられる。戦士たちが目指したのは、敵を殺すことよりも生け捕りにすることだった。黒曜石の刃を並べた木の剣マクアウィトルは、相手を傷つけて動けなくするのに向いていた。捕らえた捕虜は首都に連れ帰られ、神殿の上で心臓を捧げられた。

花の戦争は、若い戦士の訓練の場でもあった。アステカの男子は、捕虜を何人捕らえたかで位が決まり、多くを捕らえた者は鷲の戦士、ジャガーの戦士といった精鋭の仲間に入って、髪形や服装で手柄を示すことを許された。戦場で死ぬこと、あるいは捕らえられて神に捧げられることは、「花のような死」として尊ばれた。ナワトル語の詩では、花は美しさとともに、血や戦場の死を表す言葉でもあった。

なぜアステカは、すぐ隣のトラスカラを滅ぼさなかったのか。スペイン人の記録には、のちの王モクテスマ2世が、トラスカラはいつでも征服できるが、神々への生贄と若者の鍛錬のために残してあるのだと語った、という話が伝わる。だが、それは征服できなかったことの言い訳だったと見る研究者も多い。トラスカラの人々は険しい山に囲まれて強く守りを固め、アステカの大軍を何度も退けていた。花の戦争は、手ごわい相手を少ない犠牲で少しずつ弱らせ、ほかの国々に力を見せつけるための戦略だった、という説もある。儀式と戦略の両方の面があった、と考えるのが今日ではふつうである。

16世紀に入るころには、花の戦争は本当の戦争と変わらないものになっていた。アステカはトラスカラを取り囲む国々を従えて交易の道を断ち、トラスカラの人々は塩や綿を手に入れられなくなった。スペイン人の兵士ベルナル・ディアスは、トラスカラには塩が無かったと書いている。トラスカラの人々の心には、何十年も重ねられた恨みが溜まっていた。

1519年の春にメキシコ湾岸に上陸したエルナン・コルテスの一行が、夏の終わりに内陸へ進んでトラスカラの領内に入ると、トラスカラの軍は激しく迎え撃った。だが2週間ほどの戦いの末、トラスカラの指導者たちはスペイン人と手を組むことを選んだ。宿敵アステカを倒すためである。1520年、首都から追われて敗走したスペイン人を受け入れて立て直させたのもトラスカラだった。1521年のテノチティトランの陥落では、何万ものトラスカラの兵がスペイン人とともに戦った。征服はスペイン人だけの力ではなく、アステカに苦しめられてきた先住民の国々との共同の戦いだった。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

征服のあと、トラスカラはスペイン王から特別な扱いを受け、紋章を与えられ、一部の税を免れた。それでも、病気とスペインの支配の中で、人々の暮らしは大きく変わっていった。2015年からは、メキシコ市の大神殿の跡のそばで、生贄の頭蓋骨を並べた大きな棚の跡が掘り出され、男だけでなく女や子どもを含む数百の頭蓋骨が見つかっている。捕らえて殺さずにおいた隣人が、最後にはアステカを倒す側に回った。花の戦争は、そういう皮肉な結末を迎えた。メキシコの人々がいま死者の日に死者に供える黄色いマリーゴールドも、ナワトル語の名を引き継ぐ花である。

同じ時代のできごと

イロコイ連邦の成立(大平和の法)AD15世紀頃(1142年説もある)カビールの詩AD15世紀モアの絶滅AD15世紀ノルウェー領グリーンランドの終焉AD15世紀半ばボハドル岬の突破AD1434年ブルネレスキのドームAD1436年ウルグ・ベクの星表AD1437年インカ帝国の拡大AD1438年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1450年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →