『老子』の成立
概要
作為を捨てよと説く。儒家と並ぶ思想の柱になり、後に道教の経典となる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
老子紀元前6世紀頃(実在を含めて諸説あり)–? · 作者とされる本文
紀元前1世紀の歴史家、司馬遷の『史記』は、老子についてこう伝えている。老子は楚の国の人で、姓は李、名は耳。周の都で王室の書庫を守る役人をしていた。若い孔子が礼について教えを請いに来たとき、老子は、君の驕りと欲を捨てなさい、それは君の身のためにならない、と諭した。孔子は弟子たちに、老子は竜のようで、自分には捉えられない人物だった、と語ったという。やがて周の衰えを見た老子は、国を去ろうと西へ向かった。国境の関所で、役人の尹喜に教えを書き残してほしいと頼まれ、道と徳について五千字あまりの書を著して立ち去った。その後どうなったかは誰も知らない。
ところが、この話を記した司馬遷自身が、老子とは別の人物だという説もあると書き添え、200歳まで生きたという言い伝えまで紹介している。紀元前1世紀にはすでに、老子が何者なのかはっきりしなくなっていたのである。現代の研究では、老子という一人の人物が実在したかどうかには疑いが持たれている。書物の言葉づかいや思想の内容から、孔子と同じ紀元前6世紀ではなく、紀元前4世紀ごろまでに、何人もの手を経てまとめられたとみる説が有力になっている。

その成立を考える手がかりが、20世紀の後半に地中から出てきた。1973年、湖南省の馬王堆の漢代の墓から、絹に書かれた『老子』の写本が二種類見つかった。紀元前2世紀のもので、いまの本とは逆に、徳を説く後半が前に置かれていた。さらに1993年、湖北省の郭店の、紀元前300年ごろの楚の墓から、竹簡に書かれた『老子』の一部が出土した。いまの本の3分の1ほどの分量で、章の順序も違い、儒家への激しい批判を含む部分が見当たらなかった。『老子』は初めから一冊の完成した書物だったのではなく、時代を重ねて形を変えていったことが分かってきた。
いま伝わる『老子』は81の章から成る、短い詩のような言葉の集まりである。冒頭の章は、言葉で言い表せるような道は、本当の道ではない、と始まる。道とは、天地が生まれる前からあり、万物を生み出しながら、それを自分のものとしない、名づけようのない根源である。人は、その道にならって生きるべきだとされる。

そこから導かれるのが「無為」、つまりことさらな作為をしないことである。最上の善は水のようなものだ、と『老子』は言う。水は万物に恵みを与えながら争わず、人の嫌う低い所に身を置く。この世で最も柔らかい水が、最も堅い岩を打ち砕く。柔らかく弱いものが、堅く強いものに勝つのである。足ることを知る者は豊かである、という言葉も、この書から出ている。
『老子』は、当時の儒家の教えとは鋭く対立した。儒家は、仁や義、礼を学び身につけることで、人も社会も良くなると説いた。『老子』は逆に、大いなる道が廃れたから仁義が言われるようになったのだ、と見る。人がわざわざ徳を唱えなければならないのは、すでに本来の在り方から離れてしまった証拠だ、というのである。知識や欲望を増やすことは、人を幸福にしない。
この書は、政治の書としても読まれた。統治者が余計な命令や法を出さず、民の暮らしに干渉しなければ、民はおのずから治まる。小さな国に少ない民が暮らし、隣の国が見えるほど近くても、互いに行き来することもない。そんな素朴な社会を理想として描く章もある。秦の厳しい法による支配が崩れた後、漢の初めには、この考えに近い黄老の思想が重んじられ、税と労役を軽くして民を休ませる政治が行われた(文景の治)。
『老子』は、のちに荘子の思想とともに「老荘」と呼ばれ、儒家と並ぶ中国の思想の二本の柱の一つとなった。3世紀には若き天才王弼がこれに注釈をつけ、哲学として深めた。一方で、後漢の末に生まれた宗教結社は老子を神として崇め(五斗米道の始まり)、老子は道教の最高神の一人、『老子』はその経典になっていく。不老長生を求める術や呪術と結びついたその姿は、書物そのものの静かな言葉からは、かなり遠い方向へ進んだものだった。

唐の皇帝たちは同じ李の姓を持つ老子を祖先として敬い、『老子』は科挙の試験にまで取り入れられた。日本にも早くから伝わり、のちには西洋の言葉にも数多く訳されて、中国の古典の中で最も多くの言語に訳された書物の一つになっている。わずか五千字あまりの言葉が、2000年以上にわたって、読む人ごとに違う姿を見せ続けている。