最初の国勢調査
概要
合衆国憲法は、下院の議席と直接税を人口で割り振ると定め、そのために十年ごとに数えることを義務づけた。国家が、自分の民を定期的に数える最初の仕組みである。連邦保安官が戸別に回った。記録したのは世帯主の名と、六つの区分だけ。十六歳以上の自由白人男性、十六歳未満の自由白人男性、自由白人女性、その他の自由人、そして奴隷。総数 3,929,214人、うち奴隷 697,681人。奴隷は議席の計算では五分の三として数えられた。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
1787年に書かれた合衆国憲法(アメリカ合衆国憲法の制定)は、第1条で、下院の議席と直接税を各州の人口に応じて割り振ると定めた。そして、そのための人口の調査を、最初の議会が開かれてから三年以内に、その後は十年ごとに行うと決めた。国が自分の民を定期的に数えることを、憲法そのものに書き込んだのは、これが世界で初めてである。目的もはっきりしていた。国民の福祉のためではなく、議席と税、つまり権力と負担をどう配るかを決めるために数えるのである。
民を数えること自体は古くからあった。古代ローマには市民の財産と身分を登録するローマのケンススがあり、ノルマン征服後のイングランドでは土地と家畜を調べ上げたドゥームズデイ・ブックが作られた。だが、それらは税を取り立て、兵を集めるための台帳で、定期的に全員を数え続ける仕組みではなかった。

憲法の条文は、人口の数え方にも踏み込んでいた。自由人の総数に、課税されない先住民を除き、「その他のすべての者」の五分の三を加える。その他の者とは、奴隷のことである。憲法は奴隷という言葉を避けながら、奴隷一人を五分の三人として数えると定めた。制憲会議での取引の結果だった。南部の州は、議席を増やすために奴隷も人口に数えたいと主張し、北部の州は、財産として扱っている人間を議席の計算にだけ入れるのはおかしいと反対した。その折り合いが五分の三だった。この取り決めは、南部の州に人口の割には多い議席と大統領選挙人を与えた。建国から南北戦争までの大統領の多くが南部の奴隷所有者だったことの一因は、ここにあるとも論じられている。この条項は南北戦争の後、1868年の憲法修正第14条で効力を失った。
最初の国勢調査を定める法律は1790年3月1日に成立し、8月2日が調査の基準日とされた。数えたのは、連邦の保安官と、その下で働く六百人あまりの助手である。専門の調査員はおらず、用紙も配られなかった。保安官たちは自分で紙を用意し、罫線を引き、書式を作った。そのため書式は地域によってまちまちだった。集計した表は、教会や人の集まる場所に貼り出すことが決められていた。住民が間違いを見つけられるように、という配慮である。

調べた項目は、わずか六つだった。世帯主の名前、16歳以上の自由な白人男性の数、16歳未満の自由な白人男性の数、自由な白人女性の数、その他の自由人の数、そして奴隷の数。男性だけを16歳で分けたのは、兵士になれる男がどれだけいるかを知るためで、国の軍事力と働き手の大きさを測ろうとしたのである。女性は年齢で分けられていない。自由な黒人や、課税対象の先住民は「その他の自由人」に一括された。奴隷には名前が無く、数だけが記された。そのため、のちに自分の家系をたどろうとするアフリカ系アメリカ人にとって、1870年より前の国勢調査には先祖の名前がほとんど見つからない、という壁が立ちはだかることになった。
集計の結果、合衆国の人口は392万9214人だった。そのうち奴隷は69万7681人で、全体のおよそ18パーセントにあたる。最も人口の多い州はヴァージニアで、七十万人を超えていた。大きな町はフィラデルフィア、ニューヨーク、ボストン、チャールストン、ボルティモアなどだったが、町に住む人はごく一部で、新しい国は圧倒的に農村の国だった。
この結果を、ワシントン大統領も国務長官ジェファソンも、少なすぎると考えた。ジェファソンは、実際より少なく数えられたと信じると手紙に書いている。辺境の住民が税を恐れて申告を避けたこと、まだ道の通じていない土地があったことが理由として考えられた。宗教的な抵抗もあったとされる。旧約聖書には、ダビデ王が民を数えたことで神の怒りを招き、疫病が下された話があり、数えられることを不吉と感じる人がいた。
それでも国勢調査は、十年ごとに一度も途切れずに続いてきた。南北戦争のさなかも、二つの世界大戦のさなかも行われ、2020年の調査で二十四回を数える。項目は回を追って増えた。1850年には初めて世帯の全員の名前が記録されるようになったが、奴隷は別の表に、年齢と性別と肌の色だけで載せられた。1890年には、ハーマン・ホレリスのパンチカードの機械が集計に使われ、手作業なら十年近くかかると心配された作業が数年で片づいた(ホレリスのパンチカード)。ホレリスの会社は、のちにIBMの母体の一つになる。1940年には、全員ではなく一部の世帯だけに詳しく尋ねる標本調査が取り入れられた(全部は数えない)。

記録が失われたこともある。1890年の調査票の大半は、1921年1月、ワシントンの商務省の建物の地下で起きた火事で、火と放水によって損なわれた。残った部分も1930年代に処分され、その年に生きていた人々の記録はほとんど残っていない。家系をたどる人々にとって、最大の空白と呼ばれている。
数えることは、いまも政治そのものである。国勢調査の結果で各州の議席が配り直され、選挙区の線が引き直され、連邦の予算が割り振られる。誰をどう数えるかは、そのまま力の配分になる。2019年、政権が調査票に市民権の有無を尋ねる質問を加えようとしたとき、連邦最高裁は、政府が示した理由に説得力が無いとして、これを差し止めた。質問があれば移民の世帯が回答を避け、その地域の人口が少なく数えられるおそれがあったからである。1790年の憲法の条文は、数えることが中立の作業ではないことを、はじめから正直に書いていた。議席と税のために数える、と。