メアリ・ウルストンクラフト
概要
人権宣言が男性のものだった時代に、『女性の権利の擁護』を書いた。女性が劣って見えるのは教育を与えられていないからだ、と。娘が『フランケンシュタイン』を書く。
関わったできごと(1)
『女性の権利の擁護』AD1792年 · 著者本文
1759年、ロンドンに生まれた。父は織物で財を成した家の跡取りだったが、農場経営に手を出しては失敗し、そのたびに一家は引っ越した。父は酒に溺れ、妻を殴った。メアリは母を守るために、夜、両親の寝室の扉の前で寝たことがあると、のちに夫が書いている。長女でありながら、家の財産は長男に回され、娘たちにはまともな教育も持参金も用意されなかった。

19歳で家を出た。中産階級の女性が自分で食べていく道は、裕福な婦人の話し相手、家庭教師、学校の経営くらいしかなかった。親友のファニー・ブラッドや妹たちとロンドン北郊のニューイントン・グリーンに女子の学校を開いたが、経営は長く続かなかった。結婚してリスボンに渡ったファニーが出産で命を落とすとき、メアリは駆けつけて看取っている。その後、アイルランドの貴族の家で娘たちの家庭教師を務めたが、一年ほどで解雇された。
転機は、ロンドンの出版者ジョゼフ・ジョンソンとの出会いだった。急進的な書き手が集まる店で、ジョンソンは彼女に書評と翻訳の仕事を与え、住まいまで世話した。1787年に教育論『娘たちの教育についての考察』を出し、翌年には小説も書いた。女性が筆一本で暮らすのは珍しかったが、彼女は妹への手紙に、自分は「新しい種類の人間」の最初になるつもりだと書いている。
1790年、政治家エドマンド・バークが『フランス革命の省察』でフランス革命を批判すると、メアリは数週間で反論を書き上げ、『人間の権利の擁護』として出した。初版は匿名だった。伝統と相続された財産を尊ぶバークに対し、理性と平等を説いた。トマス・ペインの『人間の権利』が出るのはその翌年である。

1792年、主著『女性の権利の擁護』(『女性の権利の擁護』)を出す。女性が浅はかで感情的に見えるのは生まれつきではない。幼いころから男性を喜ばせる飾りものとして育てられ、劣った教育しか与えられていないからだ。女性にも男性と同じ理性があるのだから、同じ教育を受けさせよ、と論じた。とくにジャン=ジャック・ルソーがルソー『エミール』で描いた、男性に従うよう育てられる少女ソフィーの像を正面から批判している。人権宣言をうたう革命政府が、女子教育を家庭にとどめようとしていたことへの抗議でもあった。
同じ年の暮れ、革命のパリへ渡った。国王の処刑を見届け、やがて恐怖政治の中で知人のジロンド派が次々と断頭台に送られるのを見た。イギリスとフランスが戦争に入ると、イギリス人は逮捕の対象になった。彼女はアメリカ人の冒険商人ギルバート・イムレイと恋に落ち、その妻として登録してもらうことで身を守った。1794年に娘ファニーを産む。

イムレイの心は離れていった。ロンドンに戻ったメアリは1795年にアヘンで自殺を図り、助けられた。その後、イムレイの商用の後始末のために、幼い娘を連れて北欧を旅した。旅先からの手紙をまとめた本は、風景と孤独を書いた紀行として評判を取った。それでもイムレイは戻らず、彼女は雨の夜にテムズ川へ身を投げ、船頭に引き上げられた。
1796年、無政府主義の哲学者ウィリアム・ゴドウィンと親しくなる。二人とも結婚という制度に批判的で、近所に別々に住んだまま付き合ったが、メアリが妊娠すると1797年3月に結婚した。8月30日に娘を産んだ。胎盤の一部が残り、医師が手で取り除こうとして感染を起こした。産褥熱で、9月10日に死んだ。38歳だった。

その娘が、のちの詩人シェリーの妻、メアリ・シェリーである。母を知らずに育ち、母の墓の前で読み書きを覚えたと伝えられる。21歳になる前に『フランケンシュタイン』を書いた。
ゴドウィンは悲しみの中で、妻の伝記を翌年に出した。愛を込めて率直に書いたつもりだったが、婚外子を産んだこと、自殺未遂、結婚前の関係が明かされ、世間は彼女を堕落した女として扱った。その後およそ100年、女性の権利を論じる人々でさえ、彼女の名を出すことを憚った。再び読まれるようになるのは19世紀の終わり、女性参政権運動が広がってからである。いま彼女は、近代の物語「女性の権利」の思想の出発点に置かれている。