概要
アムステルダム。ポルトガルから逃げたユダヤ人の商人の子。1656年、23歳、シナゴーグから破門。「昼も夜も呪われよ」。レンズを磨いて生きた。ラテン語名ベネディクトゥス。『神学政治論』(1670年、匿名。聖書批判、思想の自由)。『エチカ』。ハイデルベルクの教授職を断った。「静けさを愛する」。44歳、肺(ガラスの粉)。「神に酔った人」(ノヴァーリス)。
関わったできごと(1)
スピノザ『エチカ』AD1677年 · 書いた本文
1632年11月24日、アムステルダム。ミゲル・デ・エスピノサ(ポルトガルから来た商人。コンベルソ=改宗ユダヤ人の家系で、アムステルダムでユダヤ教に戻った)の子。母ハナは6歳のとき死んだ。バールーフ(ヘブライ語で「祝福された」。ポルトガル語でベント)。ユダヤ人学校(タルムード・トーラー)。ラビにならず、父の商売(乾果、油)へ。1654年、父が死んで、弟と商売を継いだ。借金があった。
1656年、破門。何を言ったのかは分からない(後の証言。「神には身体がある」「魂は死ぬ」「律法は真でない」)。共同体は、アムステルダムの市当局に「ユダヤ人は無神論者ではない」と示す必要があった。破門の少し前、シナゴーグの階段で、狂信者に短剣で襲われた、という話がある(外套を破られただけで、その外套を記念に持っていた、と)。
破門のあと、フランシスクス・ファン・デン・エンデン(元イエズス会、ラテン語教師、自由思想家。1674年にパリでルイ14世への陰謀で絞首刑)の学校でラテン語を学び、教えた。デカルトを読んだ。レンズを磨いた(アムステルダムは望遠鏡と顕微鏡の街。ホイヘンス兄弟、フッデが友人)。1661年、レインスブルフ(ライデンの近く。コレギアント派の村)へ。1663年、フォールブルフ(ハーグの近く)。1670年、ハーグ。画家ファン・デル・スピックの家の部屋。
姓を名乗らず、「B.d.S.」と署名した。年金(友人デ・フリースが遺言で残そうとして、スピノザは減らさせた)。ワインとタバコ。蜘蛛を蠅と戦わせて笑った(と伝える)。オランダ語で話し、ラテン語で書き、ポルトガル語で考えた。
『短論文』(1660年頃、オランダ語、出版されず)。『知性改善論』。『デカルトの哲学原理』(1663年)。『神学政治論』(1670年)。ライデンの若い学生アドリアーン・クールバフが1668年、同じような考えの本を書いて、投獄されて獄で死んだ。スピノザは慎重になった。『エチカ』は机の中。1673年2月、ハイデルベルク。5月、ユトレヒトのフランス軍の本営に、コンデ大公に招かれて行った(コンデはいなかった。何のためかは分からない。フランスの年金と引き換えに本を献呈しないか、と言われて、断った、と伝える)。「フランスのスパイ」と噂されて、家主が守った。1676年11月、ライプニッツが訪ねて、数日話した(ライプニッツは後で「少し話した」と否定した)。
1677年2月21日、日曜日。友人(マイヤー、医者)がアムステルダムから来て、午後、その人と一緒にいて、3時頃、死んだ。家主一家は教会に行っていた。44歳。机の原稿と、手紙。ヘブライ語文法(未完)、『国家論』(未完。民主政の章の途中で終わる)。2月25日、ハーグの新教会(プロテスタント)に葬られた。6人の馬車。財産は、本(160冊)と、ベッドと、レンズと研磨の道具。妹が相続を求めて、借金の方が多いと知って、放棄した。
「賢者は死について最も考えない。賢者の知恵は、死でなく生についての瞑想である」(『エチカ』第4部定理67)。
破門は解かれていない。1953年、ベン・グリオンが解除を求め、アムステルダムの共同体は「決める権限がない」と答えた。2012年、また断った。2015年、シンポジウムでラビたちが議論して、解かなかった。