ドラコンの成文法
概要
それまで貴族が口で伝えていた慣習を、初めて書いて掲げた。罰が厳しすぎたので「ドラコン的」という言葉が残るが、書いて公開したこと自体が大きい。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
本文
紀元前7世紀のアテナイは、貴族が治める国だった。毎年選ばれる役人も裁判をする者も、名家の出身者に限られていた。何が罪で、罰がどれだけかは、書かれた法としてではなく、貴族たちが口で伝える慣習として存在した。知っているのは彼らだけで、裁かれる側は、その中身を確かめることができない。
争いは血で解決されることが多かった。人を殺されれば、その家族が仇を討つ。仇討ちは仇討ちを呼び、家と家の争いが何代も続いた。紀元前630年代には、キュロンという貴族が僭主になろうとアクロポリスを占拠し、失敗した。立てこもった仲間たちは神殿に助けを求めたが、命を保証されて出てきたところを、名家アルクメオン家の者たちに殺された。神聖な誓いを破ったこの事件は、町に長く遺恨を残した。

ホメロスの叙事詩(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)には、殺された者の家族と殺した者が、賠償の支払いをめぐって長老たちの前で争う場面が描かれている。血の報復を、金や品物による償いで収めようとする仕組みは古くからあった。ただ、それが守られるかどうかは、当事者の家の力しだいだった。
紀元前621年ごろ、ドラコンという人物が法を定め、書いて人々に示した。アテナイで初めての成文法とされる。ドラコンがどんな人物だったかは、ほとんど分かっていない。後世の伝承の中にしか現れないため、実在を疑う研究者もいる。

内容は厳しかった。後の伝記作家プルタルコスは、ドラコンの法では怠惰も、野菜や果物を盗むことも死刑で罰せられ、ほとんどすべての罪に死が科された、と書いている。なぜそんなに重いのかと問われ、ドラコンは、軽い罪にもそれがふさわしく、重い罪にはそれ以上の罰が思いつかなかったからだ、と答えたという。紀元前4世紀の弁論家デマデスは、ドラコンの法はインクではなく血で書かれた、と評した。
ただ、どこまでが史実かは分からない。厳しさの話は、何百年も後の書き手が伝えたものである。確かに中身が分かるのは、殺人についての条文だけだ。紀元前409年、アテナイの人々はドラコンの殺人法を石に刻み直して掲げ、その碑の一部がいまも残っている。
その条文は、意外に細やかだった。殺意があった殺人と、殺すつもりのなかった殺人を分け、後者には死刑でなく国外への退去を科した。被害者の家族が全員一致で許せば、罪を問わずに済ませることもできた。競技の最中の事故や、身を守るために相手を殺した場合など、罪に問わない場合も定められていた。裁くのは特別に選ばれた51人の判事である。家族の私的な復讐に任せていた殺人を、手続きの決まった裁判へ移すことが、この法の狙いだったと考えられている。
書いて示すことの意味は大きかった。法が石や木の板に刻まれて人目に触れる場所に置かれれば、誰でもその中身を確かめられる。貴族がその場で慣習を都合よく言い換えることは難しくなる。ギリシア世界では、クレタ島のドレロスに紀元前7世紀後半の法の碑文が残り、各地で法を書き記す動きがほぼ同じ頃に起きていた。メソポタミアのハンムラビ法典から千年あまり後、ローマの十二表法より170年ほど前のことになる。
30年ほど後の紀元前594年、ソロンが改革を行い(ソロンの改革)、ドラコンの法の大半を廃止した。殺人に関する条文だけが残された。その後のクレイステネスの改革を経て、アテナイは市民が自ら法を決める民主政へ向かっていく。
厳しさは残らなかった。それでも「ドラコン的」という言葉は、いまもヨーロッパの言葉で、過酷で容赦のない措置を指して使われる。後世に残ったのは、罰の重さの評判と、法を書いて掲げたという形だった。