人物

モンテスキュー

Montesquieu
AD1689年1月18日 – AD1755年2月10日(享年66)
フランス王国重要度 4

概要

ボルドーの法服貴族。ペルシア人の目でパリを描いた風刺で名を出し、20年かけて『法の精神』を書いた。権力を分けて互いに抑えさせる、という発想の元になる。

所属

フランス王国

関わったできごと(1)

『法の精神』AD1748年 · 著者

本文

本名はシャルル=ルイ・ド・スゴンダという。1689年1月18日、ボルドー近郊のラ・ブレード城に生まれた。洗礼のとき、名付け親に村の貧しい男が選ばれたと伝えられる。生涯、貧しい者は自分の兄弟であることを忘れないように、という親の配慮だった。

モンテスキューの肖像
モンテスキューの肖像Wikimedia Commons After Jacques-Antoine Dassier · Public domain

家は、裁判官の職を受け継ぐ法服貴族だった。修道会の学院で学び、法律を修めた。1716年、伯父の死によって、ボルドー高等法院の副院長の職と、モンテスキュー男爵の名を相続する。当時のフランスでは、こうした官職は家の財産として売り買いされ、相続された。のちに権力の分立を説く人物は、自分自身が買われた官職の持ち主だった。

裁判官の仕事には熱心ではなかったらしい。地元のボルドー・アカデミーに入り、こだまの原因や腎臓の働きといった自然科学の論文を発表している。名を一気に広めたのは、1721年にアムステルダムで匿名で出した『ペルシア人の手紙』だった。パリを訪れた二人のペルシア人が、故郷とやり取りする手紙の形で、フランスの王、教会、流行、社交界を不思議がり、からかう。外から見れば当たり前が奇妙に見える、という仕掛けである。本は売れ、著者が誰かはすぐに知れ渡った。物語は、主人公が留守にした故郷の後宮で女たちが反乱を起こす場面で終わる。風刺の裏に、専制というものへの関心がすでに見える。

モンテスキュー
モンテスキューWikimedia Commons After Jacques-Antoine Dassier · Public domain

1726年、高等法院の職を売った。1728年にアカデミー・フランセーズの会員になると、その年からヨーロッパ各地を回る旅に出る。オーストリア、ハンガリー、イタリア、ドイツ、オランダを巡り、最後の約2年をイギリスで過ごした。議会の討論を傍聴し、政党が国王と争いながら国を動かす様子を見ている。帰国後、ラ・ブレードの城に戻り、ぶどう園を経営しながら書くことに打ち込んだ。1734年には『ローマ人盛衰原因論』を出し、ローマの興亡を運や英雄の力ではなく、制度と習俗の変化から説明しようとした。

主著『法の精神』は、約20年をかけて1748年にジュネーヴで匿名で出版された(『法の精神』)。31編に及ぶ大著である。法はどこでも同じ理屈から作られるのではなく、その土地の気候や土壌、宗教、商業、習俗との関係の中で決まる、と論じた。政体を、徳を原理とする共和政、名誉を原理とする君主政、恐怖を原理とする専制の三つに分けた。

『法の精神』に関わる図版:Montesquieu, De l'Esprit des loix (1st ed, 1748, vol 1, title page)
『法の精神』Wikimedia Commons Smuconlaw . · Public domain

最も後世に響いたのは、イギリスの国制を論じた章である。権力を持つ者はそれを濫用しがちだ、という経験から出発し、権力が権力を抑えるようにしなければならない、と説いた。立法、執行、裁判の三つの力が一人や一つの集団の手に集まれば、自由は失われる。これが三権分立の考えの源になった。もっとも、彼が描いたイギリスの姿はかなり理想化されたもので、実際のイギリスでは議会と内閣が強く結びつきつつあった。

出版は大きな反響を呼んだ。2年ほどで20を超える版が出たとされる。一方で、宗教を社会の制度の一つとして扱ったことが攻撃を受け、反論の書『法の精神の擁護』を書いた。1751年、ローマ教会はこの本を禁書目録に加えた。

200フランス・フラン紙幣に描かれたモンテスキュー
200フランス・フラン紙幣に描かれたモンテスキューWikimedia Commons Banque de France · Public domain

奴隷制を論じた章がある。黒人奴隷制を正当化する理屈を並べてみせ、彼らの鼻はひどく低いので同情するのは難しい、砂糖が高くなるから必要だ、と書く。理屈の馬鹿馬鹿しさで、読む者に奴隷制のおかしさを気づかせる皮肉の書き方だが、真に受けて奴隷制擁護の根拠として引く人もいた。

晩年は視力をほとんど失い、1755年2月10日、パリで熱病のため66歳で亡くなった。葬儀に参列した名の知れた文人は、ディドロ一人だったと伝えられる。

死後、その考えは海を越えた。1787年にフィラデルフィアでアメリカ合衆国憲法の制定が起草されたとき、議会・大統領・裁判所を分けて互いに抑えさせる仕組みには、モンテスキューの影響がはっきり見える。憲法の擁護論を書いたマディソンは「名高いモンテスキュー」を引いて論じ、建国期のアメリカの政治文書で最も多く引かれた著者の一人になった。ジョン・ロックやジャン=ジャック・ルソーと並び、フランス革命の人々にも読まれた。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

批判もある。国王の専制を抑える力として彼が期待したのは、貴族や高等法院のような「中間の団体」で、それは自分が属する身分の特権を守る理屈でもあった。それでも、権力を一つにまとめず、互いに牽制させるという発想は、いまの多くの国の憲法の骨組みになっている。

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