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Person / 人

ヘンリー・フォード

Henry Ford
AD1863年7月30日 – AD1947年4月7日(享年83)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

ミシガンの農家。機械が好きで、農業が嫌いだった。エジソン照明会社の技師から、1903年、フォード自動車。1908年、T型。1913年、流れ作業。1914年、日給5ドル。1500万台。「顧客は好きな色を選べる。それが黒である限り」。同時に、労働組合を暴力で潰し、反ユダヤ主義の新聞を出し(後に謝罪した)、ナチスが彼を讃えた。20世紀の工業と、その影を、一人で体現した。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

フォードの流れ作業AD1913年 · 作った

本文

1863年7月30日、ミシガンのグリーンフィールド(いまディアボーン)。アイルランド系の農家。母メアリは彼が12歳のとき、出産で死んだ。「家から心臓が抜けた」。父は農場を継がせたかった。ヘンリーは機械が好きだった。13歳のとき、道で自走する蒸気の脱穀機を見て、降りて運転手に質問した。「あれが、私の人生を決めた」。15歳、時計を分解して直した(近所の時計を無料で直した)。

16歳、デトロイトへ。機械工の徒弟。1891年、エジソン照明会社の技師。1893年、主任技師。夜、自宅の物置で内燃機関を作った。1896年6月4日、四輪車(クアドリサイクル)。物置の戸口より広くて、壁を斧で壊して出した。同じ年、ニューヨークの会合で、エジソンに会った。エジソンが拳で机を叩いて「若いの、それだ! 電気自動車は発電所が要る。蒸気はボイラーが要る。君のは自分で燃料を積んでいる。続けたまえ」。生涯の友人になった。

1899年、デトロイト自動車会社(失敗)。1901年、レースカーで名を上げた。1903年6月16日、フォード・モーター。資本2万8000ドル、12人の出資者。

1908年10月1日、T型(モデルT)。「大衆のための車」。バナジウム鋼で軽く強く、車高が高く、単純で、農民が自分で直せる。850ドル。

1913年、流れ作業。1914年、5ドル。1918年までにアメリカの自動車の半分がT型。1927年5月26日、1500万7033台目で生産終了(同じ車を19年)。

その後。1918年、上院選に出て落ちた。1919年、息子エドセルに社長を譲って、実権は持ち続けた。1927年、A型。1932年、V8。1941年、ようやくUAW(自動車労組)と契約(それまで、私兵組織「サービス部」のハリー・ベネットが、組合の組織者を殴った。1937年の「歩道橋の戦い」の写真が世論を変えた。1932年のハンガー・マーチで警備が発砲して4人が死んだ)。

影。1918年、地元紙『ディアボーン・インディペンデント』を買って、1920年から91回、反ユダヤ主義の記事を連載した(「国際ユダヤ人」。『シオン賢者の議定書』を本気にしていた)。ドイツ語訳がドイツで広く読まれ、ヒトラーは『わが闘争』でフォードを名指しで賞賛し、執務室に彼の写真を置いた。1938年、ナチス・ドイツからドイツ鷲勲章を受けた(アメリカ人で最高位の受章者の一人)。1927年、訴訟をきっかけに謝罪の声明を出し、新聞を閉じた(本人が書いたかは疑わしい)。

平和。1915年、「平和船」(オスカー2世号)を仕立てて、ヨーロッパへ渡り、「クリスマスまでに塹壕から兵を帰す」と言った。嘲笑されて、途中で帰った。

1943年、エドセルが胃癌で死んだ(49歳。父との軋轢が寿命を縮めた、と言われる)。80歳の父が社長に戻り、判断力が衰えていた。1945年、孫のヘンリー・フォード2世が引き継いだ。

1947年4月7日、ディアボーンで死んだ。83歳。洪水で電気が止まった夜、蝋燭の灯りの下で。

グリーンフィールド・ヴィレッジ。1929年、彼が作った野外博物館。エジソンのメンローパークの研究所を建物ごと移し、ライト兄弟の自転車店を移し、19世紀のアメリカの村を再現した。彼が壊した世界を、彼が集めて保存した。