ヘンリー・フォード
概要
ミシガンの農家。機械が好きで、農業が嫌いだった。エジソン照明会社の技師から、1903年、フォード自動車。1908年、T型。1913年、流れ作業。1914年、日給5ドル。1500万台。「顧客は好きな色を選べる。それが黒である限り」。同時に、労働組合を暴力で潰し、反ユダヤ主義の新聞を出し(後に謝罪した)、ナチスが彼を讃えた。20世紀の工業と、その影を、一人で体現した。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
フォードの流れ作業AD1913年 · 作った本文
ヘンリー・フォードは、1863年7月30日、ミシガン州デトロイトの西、いまのディアボーンにあたる土地の農場に生まれた。父ウィリアムはアイルランドから渡ってきた移民で、勤勉な農夫だった。12歳のとき、母メアリーが出産のさなかに死んだ。彼はのちに、家は時計のぜんまいが抜けたようになった、と語っている。

父は長男に農場を継がせたかったが、ヘンリーは畑仕事が嫌いで、機械が好きだった。12、3歳のころ、父と馬車で町へ向かう途中、自力で道を走ってくる蒸気機関の脱穀機に出会った。彼は馬車から飛び降り、運転していた男を質問攻めにした。あの日が自分の人生を決めた、と彼は回想している。近所の時計を分解しては直し、腕前は評判になった。
16歳で家を出てデトロイトに行き、機械工場の見習いになった。いったん農場に戻ったのち、1891年、エジソン照明会社のデトロイトの発電所に技師として入り、2年後には主任技師になった。昼は発電所の蒸気機関を見て、夜は自宅裏の物置で、ガソリンで動く小さな機関を組み立てた。妻クララが台所で燃料をたらす役を手伝った。1896年6月4日の未明、自転車の車輪を4つつけた最初の車「クアドリサイクル」が完成した。ところが車は物置の戸口より幅が広く、彼は斧で煉瓦の壁を壊して外に出した。

同じ年の夏、エジソン照明会社の幹部の集まりで、彼は憧れのトーマス・エジソンに自分の車の話をした。電気自動車は充電の設備が要り、蒸気自動車はボイラーが要る、君の車は自分で燃料を積んで走る、それでいい、続けなさい。エジソンは机を叩いてそう励ました、とフォードは書いている。二人はのちに生涯の親友になった。
最初の二つの会社は、出資者とのいさかいで失敗した。彼は競走用の車を作ってレースに勝ち、名を売った。1903年6月16日、12人の出資者から2万8000ドルを集めて、フォード・モーター・カンパニーを設立した。
当時、自動車は金持ちの道楽だった。フォードは、普通の勤め人や農民が買えて、ぬかるみの田舎道でも走れ、自分で直せる車を作ろうとした。1908年10月、T型が発売された(T型フォード)。軽くて強い特殊な鋼を使い、車高が高く、構造は単純だった。値段は850ドルほどで、当時の車としては破格に安かった。
注文は追いつかないほど殺到した。もっと速く、もっと安く作るために、彼と技術者たちは、食肉工場で吊るされた肉が流れていく作業の仕組みなどに学び、作業を細かく分けて、部品の方を人のところへ動かす方法を試した。1913年、デトロイト郊外のハイランドパーク工場に移動式の組立ラインが入り、車台一台を組み立てる時間は、12時間あまりから1時間半ほどに縮んだ(フォードの流れ作業)。T型の値段は下がり続け、1920年代には300ドルを切るまでになった。顧客は好きな色を選べる、それが黒である限り、と彼は自伝に書いている。

だが単調な流れ作業に、工員はすぐ辞めていった。1914年1月、フォードは日給を一挙に約2倍の5ドルに上げると発表した。工場の前には仕事を求める人が殺到した。高い給料は工員を引き留め、彼ら自身を車の買い手に変えた。ただし、5ドルを受け取るには、会社の「社会部」の調査員に家庭を訪問され、酒や賭け事をしないか、家を清潔にしているかを調べられるという条件がついていた。1926年には、週5日、40時間の労働を取り入れた(週五日、四十時間)。1927年5月、1500万台目のT型が送り出され、生産は終わった。同じ型の車を19年間作り続けたことになる。この頃にはアメリカの自動車の過半をT型が占めた時期もあった。
一方で、彼には強い偏見と頑固さがあった。第一次世界大戦のさなかの1915年、彼は「平和船」と呼ぶ客船を仕立て、平和運動家たちとヨーロッパへ渡り、クリスマスまでに兵士を塹壕から家へ帰らせると宣言した。新聞に笑いものにされ、彼自身は途中で帰国した。1918年には上院議員選挙に出て敗れた。

同じころ、地元の週刊新聞『ディアボーン・インディペンデント』を買い取り、1920年から、ユダヤ人が世界を支配しようとしているという内容の連載を2年近く続けた。偽書『シオン賢者の議定書』を下敷きにしたもので、記事は本にまとめられ、ドイツ語にも訳されて広く読まれた。若いヒトラーはフォードを称賛し、ミュンヘンの事務所に彼の写真を飾っていたと伝えられる。1927年、名誉毀損の訴訟をきっかけにフォードは謝罪の声明を出し、新聞を閉じたが、声明を本人が書いたかどうかは疑われている。1938年、75歳の誕生日に、ナチス・ドイツから外国人に与える最高位の勲章を受けた。
労働組合を、彼は最後まで拒んだ。社内の「サービス部」と呼ばれる警備組織が、組合の活動家を暴力で抑え込んだ。1932年、失業者の行進にフォードの工場の警備と警察が発砲し、4人以上が死んだ。1937年には、工場に通じる歩道橋の上でビラを配ろうとした組合の幹部たちが、警備員に殴られる写真が新聞に載り、世論の怒りを買った。1941年、全米自動車労組との協約に追い込まれた。

1919年に一人息子のエドセルを社長に据えたが、実権は手放さず、新しい車の提案をことごとく退けて息子を苦しめた。T型に固執するあいだに、色も型も選べる車を毎年出すゼネラル・モーターズに追い抜かれた。1943年、エドセルが49歳で胃癌で死ぬと、80歳近い彼が社長に戻ったが、判断力は衰えていた。1945年、孫のヘンリー・フォード2世が会社を引き継いだ。
1947年4月7日の夜、ディアボーンの邸宅で死んだ。83歳だった。その日、近くの川の洪水で発電所が止まり、屋敷の電気は消えていた。最期を照らしたのは石油ランプと蝋燭だったという。

晩年の彼は、自分の車が消し去った19世紀のアメリカの田舎の暮らしを惜しみ、古い道具や建物を集めた。1929年、ディアボーンに野外博物館グリーンフィールド・ヴィレッジを開き、エジソンのメンローパークの研究所や、ライト兄弟の自転車店を建物ごと移して保存した。大量生産と大量消費の時代を開いた人は、偏見と暴力の影も濃く残した。