できごと

ベネディクトの戒律

Rule of Saint Benedict
AD529年頃
重要度 4
ベネディクトの戒律に関わる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
MS. Hatton 48 fol. 6v-7r Wikimedia Commons Public domain

概要

後世「祈り、かつ働け」とまとめられる、修道院という暮らし方の設計図になり、写本を通じて古代の書物が生き延びる器にもなった。

場所

モンテ・カッシーノ
41.49°N 13.81°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

ヌルシアのベネディクトゥスAD480年頃–AD547年頃 · 当人

本文

6世紀の初め、イタリアはゲルマン人の王テオドリックの支配下にあった(テオドリックのイタリア王国)。ローマの町は衰え、古い元老院の家柄の人々も、なお古典の教養を守りながら、新しい支配者に仕えていた。そのころ、ローマで学んでいた一人の若者が、町の堕落を嫌って学業を捨て、山にこもった。のちに「ベネディクトの戒律」を書いたヌルシアのベネディクトゥスである。

ベネディクトの生涯について分かっていることの多くは、半世紀ほど後に教皇グレゴリウス1世(グレゴリウス1世の即位)が書いた『対話』の第2巻による。聖人の奇跡を伝えるための書物で、どこまでが事実かは確かめられない。それによれば、ベネディクトはローマの東のスビアコの洞窟で3年間ひとりで祈りの生活を送り、やがて慕って集まった人々のためにいくつもの小さな修道院を作った。一時は、厳しさに反発した修道士たちに毒を盛られかけたという話もある。529年ごろ、ローマとナポリの間の山モンテ・カッシーノに移り、古い神殿の跡に修道院を建てた。戒律は、ここで書かれたとされる。

戒律を記す聖ベネディクトゥス
戒律を記す聖ベネディクトゥスWikimedia Commons Georges Jansoone · Public domain

戒律は73の章からなる。修道院長をどう選び、どう振る舞うべきか。一日に何度、どの詩編を歌うか。何を食べ、どれだけ飲み、どう眠るか。過ちを犯した者をどう扱うか。新しく入りたい者をどう試すか。修道院という共同体の暮らしを、細部まで定めた設計図である。序文でベネディクトは、この修道院を「主に仕える学校」と呼び、厳しすぎることや重すぎることは何も定めないつもりだと書いている。

新しかったのは、極端を避けたことだった。それまでのエジプトやシリアの修道士たちは、砂漠で独り断食を重ねたり、柱の上で何十年も暮らしたりする苦行で知られていた。ベネディクトは、ふつうの人が一生続けられる程度を定めた。食事は一日に二品の煮炊きした料理とパンで、ぶどう酒もほどほどなら認めた。修道士がぶどう酒を飲むべきでないことは承知しているが、今の修道士にそれを納得させるのは無理だから、せめて飽きるほどは飲まないように、という書き方である。

ベネディクトゥスと弟子
ベネディクトゥスと弟子Wikimedia Commons unknown / (of the reproduction) Heinrich-Heine-Universität Düsseldorf/ Universitäts- und Landesbibliothek Düsseldorf · Public domain

一日は、夜明け前から日没後まで、祈りの時と、働く時と、読む時に割り振られた。共同の祈りは昼夜で8回あり、それを神の業と呼んで何よりも優先させた。一方で、怠惰は魂の敵であると書き、決まった時間の手仕事と、聖書や教父の書を読む時間を求めた。よく知られる「祈り、かつ働け」という言葉は、戒律の本文にはなく、後の時代に戒律の精神をまとめて言った標語である。

戒律は、修道院長に大きな権威を与えながら、独断を戒めた。大事なことを決めるときは修道士全員を集めて意見を聞くこと、それも若い者の意見まで聞くこと。神はしばしば、若い者により良い考えを示されるからだ、と書いている。修道院長は、弱い者がついて来られ、強い者がもっと求める余地を残すように、すべてを加減すべきだとも記された。

聖ベネディクトが戒律を修道士たちに授ける場面(サン=ジル修道院、ニーム、1129年)
聖ベネディクトが戒律を修道士たちに授ける場面(サン=ジル修道院、ニーム、1129年)Wikimedia Commons Public domain

ベネディクトが亡くなったのは547年ごろとされる。モンテ・カッシーノの修道院は、のちに何度も破壊された。6世紀の末にはランゴバルド人に焼かれ、9世紀にはイスラム勢力に襲われ、14世紀には地震で崩れ、1944年の第二次世界大戦では連合軍の爆撃で瓦礫になった。そのたびに建て直されて、今も山の上に建っている。

この戒律がヨーロッパ全体に広まったのは、ずっと後のことである。8世紀から9世紀、カール大帝とその息子ルートヴィヒ1世は、帝国の修道院を一つの規範でそろえようとし、816年からの会議で、ベネディクトの戒律を標準とした。修道院は、祈りの場であると同時に、学校であり、書物を写して蓄える場所になった(アーヘンの宮廷学校)。戒律そのものは写本作りを定めていないが、読むことを日課にした以上、本は欠かせなかった。古代ローマの文学や学問の書物の多くは、こうした修道院で写し継がれて後世に伝わった。

ジョン・ロジャーズ・ハーバート画『労働は祈りである』(1862年)。畑で働く修道士たちを描く
ジョン・ロジャーズ・ハーバート画『労働は祈りである』(1862年)。畑で働く修道士たちを描くWikimedia Commons John Rogers Herbert · Public domain

10世紀に創立されたクリュニー修道院(クリュニー修道院の創立)や、11世紀末に始まるシトー会など、中世の修道院の改革運動は、どれもベネディクトの戒律にもっと忠実に戻ろうとする動きだった。1964年、教皇パウロ6世はベネディクトをヨーロッパの守護聖人と定めた。1500年前に書かれた戒律は、今も世界中の修道院で読まれている。

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