ヴォルテール
概要
二度バスティーユに入り、イギリスに亡命し、フリードリヒ大王と文通して喧嘩した。冤罪の再審を勝ち取り、寛容を説き、教会を嘲った。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
『カンディード』AD1759年 · 著者本文
1694年11月21日、パリに生まれた。本名はフランソワ=マリ・アルエ。父は裕福な公証人だった。7歳で母を亡くした。イエズス会の名門校ルイ=ル=グラン学院で古典を学び、早くから詩の才を見せた。名付け親の神父に連れられて、パリの文人たちのサロンにも出入りした。父は息子を法律家にしたかったが、本人は文学で身を立てることしか考えていなかった。

20代の初め、ルイ14世の死後に政治を握った摂政オルレアン公を皮肉った詩を書いたとされ、1717年、バスティーユ牢獄に11か月入れられた。獄中で悲劇を書き上げ、出獄した翌年、上演されて大成功を収めた。このころから「ヴォルテール」という筆名を名乗る。名の由来には諸説ある。
1726年、名門の貴族ロアン家の騎士と口論になった。騎士は家来たちにヴォルテールを棒で打たせ、本人は馬車の中から眺めていた。平民が決闘を申し込もうとすると、逆にバスティーユへ送られ、国外へ出ることを条件に釈放された。生まれによって正義が決まる社会への怒りは、この屈辱から生まれたとも言われる。

イギリスでの3年近い亡命は、彼を変えた。イギリスでは、言論や信仰の自由がフランスよりはるかに広く認められ、議会が王の力を抑えていた。アイザック・ニュートンの葬儀がウェストミンスター寺院で国葬のように営まれるのを見て、学者がこれほど敬われる国があるのかと驚いた。ジョン・ロックの哲学やシェイクスピアの劇にも触れた。帰国後、その見聞をもとにイギリスを称える『哲学書簡』を書いた。それは遠回しのフランス批判でもあり、1734年、本は焼かれ、逮捕状が出た。
ヴォルテールは東の国境に近いシレーの館へ逃れた。館の主は、数学と物理に通じた侯爵夫人エミリー・デュ・シャトレだった。二人は恋人となり、15年近くこの館で暮らし、ともにニュートンの物理学を研究した。ヴォルテールはニュートンの考えをフランスに広める本を書き、夫人はニュートンの主著をフランス語に訳した。その後も生涯の大半を、国境の近くで過ごした。いつでも外国へ逃げられるように、である。

1750年、文通を続けていたプロイセンのフリードリヒ2世(大王)に招かれ、ポツダムの宮廷に入った。だが才気の強い二人はやがて衝突し、ヴォルテールが王の気に入りの学者を嘲る冊子を書くと、王はそれを焼かせた。3年後に宮廷を去ったが、途中のフランクフルトで王の使いに足止めされ、王の詩の原稿を取り上げられた。それでも、二人の文通はのちに再開して生涯続いた。
1755年、ポルトガルの首都をリスボン大地震が襲い、数万人が死んだ。この世界は神が作りうる最善のものだという楽天的な哲学では、この惨事を説明できない。ヴォルテールはそう考えて詩を書き、1759年には小説『カンディード』を出した。世間知らずの青年が、すべては最善だと教えられたまま、戦争や地震や宗教裁判をくぐり抜けていく。最後に彼が言うのは、「私たちの畑を耕さなければならない」という言葉だった。

晩年はスイスとの国境に接するフェルネーに館を構え、村を開いて時計作りの工房を招き、村人の暮らしを豊かにした。ヨーロッパ中から訪問客が押し寄せ、彼は「フェルネーの長老」と呼ばれた。『百科全書』にも記事を寄せた。
1762年、南フランスのトゥールーズで、プロテスタントの商人ジャン・カラスが処刑された。息子がカトリックに改宗しようとしたため父が殺したのだ、という疑いをかけられ、車輪で手足を砕かれる刑で殺されたのである。証拠は乏しく、息子は自ら命を絶ったと考えられた。ヴォルテールは遺族を支援し、人々に訴え続け、1763年に『寛容論』を書いた。1765年、カラスの無実が認められた。3年かかっている。ほかにも、宗教の名で罰せられた人々の弁護に力を尽くした。

キリスト教の教会、とりわけその不寛容と迷信を激しく攻撃し、手紙の結びに「恥ずべきものを叩きつぶせ」と書き続けた。ただし神を否定したわけではなく、宇宙を作った神の存在は認めていた。時計があれば時計職人がいるはずだ、と書いている。
1778年2月、28年ぶりにパリへ戻った。町は熱狂して彼を迎え、劇場では彼の胸像に冠がかぶせられた。アメリカから来ていたベンジャミン・フランクリンは孫を連れて訪れ、ヴォルテールはその子に「神と自由」という言葉で祝福を与えた。だが長旅と興奮で体を壊し、5月30日、パリで亡くなった。83歳だった。教会は葬儀を拒み、遺体はひそかに運び出されて地方の修道院に葬られた。

1791年、革命政府はその遺骸をパリのパンテオンに移し、盛大な行列で迎えた(フランス革命)。「私はあなたの意見に反対だが、それを言う権利は命をかけて守る」という言葉が彼のものとしてよく引かれるが、これは1906年に出たイギリスの伝記作家の本で、ヴォルテールの考えを要約した一文である。本人の言葉ではない。それでも、その要約が彼のものとして広まったこと自体が、彼が何のために書き続けたかを物語っている。