できごと

サーマーン朝の興り

Rise of the Samanids
AD875年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民唐スラヴ系の諸部族ハザールペルミ系の人びとサーミ東ローマ帝国ヒンドゥーの諸国ラージプートの諸氏族と小国アヴァールプラティーハーラ朝マクリアバシキールラーシュトラクータ朝Finnsパーラ朝ヴォルガ・ブルガール南詔南詔と大理アルワVepsMagyarsアクスム王国第一次ブルガリア帝国Karelians真臘クメール帝国バルトの諸部族MordviniansRus' Khaganateチャーハマーナ朝大モラヴィア国ピュー(驃)の諸都市モンの諸国MariVallabhiEstsドヴァーラヴァティーAD875年ブハラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD875年の版図を描いています(41勢力)。

概要

バルフの貴族の孫たちがカリフからトランスオクシアナを与えられた。ブハラ。ペルシア語をアラビア文字で書き、宮廷で使った。ルーダキー、フェルドウスィーの『王書』。イブン・シーナーがブハラの図書館で学んだ。トルコの奴隷兵を育て、その奴隷兵に取られた。

場所

ブハラ
39.77°N 64.43°E · ウズベキスタン

本文

7世紀から8世紀にかけて、アラブの軍はササン朝ペルシアを倒し、アム川を越えて中央アジアのオアシスの町々まで進んだ。ペルシア語を話す人々の土地は、カリフの帝国の一部になる。行政と学問の言葉はアラビア語になり、ペルシアの文字は使われなくなった。8世紀半ばのアッバース革命は東方のホラーサーンから始まり、アッバース朝の宮廷にはペルシア系の官僚が多く仕えたが、彼らもアラビア語で書いた。

サーマーン家の祖とされるサーマーン・フダーは、アフガニスタン北部のバルフに近い村の領主で、ゾロアスター教徒だったという。ウマイヤ朝のホラーサーン総督のもとでイスラームに改宗し、総督にちなんで息子をアサドと名づけたと伝えられる。家はのちに、ササン朝の名将バフラーム・チョービーンの子孫を名乗った。古いペルシアの貴族の血を引く、という主張である。

ニーシャープール地方で見つかった、サーマーン朝時代(10世紀)の馬上の鷹匠を描いた壁画
ニーシャープール地方で見つかった、サーマーン朝時代(10世紀)の馬上の鷹匠を描いた壁画Wikimedia Commons David Nicolle · CC BY 4.0

アサドの四人の息子は、アッバース朝のカリフ、マームーンに仕えた。マームーンがホラーサーンにいたころの縁である。819年ごろ、四人はそれぞれサマルカンド、フェルガナ、シャーシュ(いまのタシュケント)、ヘラートの統治を任された。ホラーサーンを治めていたターヒル朝の下の地方長官としてである。

875年、孫の世代のナスル1世が、カリフ・ムウタミドから、アム川の北、マーワラーアンナフルと呼ばれる地方全体の統治を認める任命状を受けた。これをサーマーン朝の始まりとすることが多い。ナスルは弟のイスマーイールをブハラに送ったが、やがて兄弟は争い、勝ったイスマーイールが、892年に兄が死ぬと一族の全権を握った。ブハラが都になる。

反乱を鎮めるヌーフ2世。『マジュマ・アル=タワーリーフ』(1425年頃)より
反乱を鎮めるヌーフ2世。『マジュマ・アル=タワーリーフ』(1425年頃)よりWikimedia Commons anonymous · Public domain

900年、イスマーイールはバルフの近くで、イラン東部から勢力を広げていたサッファール朝のアムルを破り、捕えてバグダードへ送った。カリフはイスマーイールにホラーサーンの統治も任せる。サーマーン朝はこうしてアム川の両岸を治める大きな国になった。ただし、カリフから独立したわけではない。君主はアミール(総督)を名乗り、硬貨にはカリフの名を刻み続けた。

都のブハラには、学者と詩人が集まった。サーマーン朝の宮廷で起きたいちばん大きな変化は、言葉である。ペルシア語の話し言葉を、アラビア文字で書き表し、詩と散文の言葉として使い始めたのだ。いま新ペルシア語と呼ばれるものである。10世紀前半のナスル2世の宮廷では、ペルシア詩の父と呼ばれるルーダキーが歌った。盲目の詩人だったと伝えられる。ヘラートで長く夏を過ごしてブハラに戻ろうとしない君主に、ルーダキーが故郷の川の匂いをうたう詩を聞かせると、君主は靴もはかずに馬に飛び乗って帰途についた、という話が後の書物に残っている。

散文でも、ペルシア語の書物が作られた。10世紀の後半、アミールのマンスール1世の命で、宰相のバルアミーが、アラビア語で書かれたタバリーの大部な歴史書をペルシア語に移した。クルアーンの注釈書の翻訳も、この時代に行われている。古いイランの王たちの物語を詩にまとめる仕事も、詩人ダキーキーがサーマーン朝の宮廷で始めた。彼が若くして殺されたあと、その仕事を引き継いだのがトゥースのフィルドウスィーで、完成した『シャー・ナーメ(王書)』は、1010年、サーマーン朝を倒した側の王に献じられることになる。

『シャー・ナーメ(王書)』に関わる図版:The Court of Gayumars (Cropped)
『シャー・ナーメ(王書)』Wikimedia Commons Attributed to Sultan Muhammad · Public domain

ブハラには大きな宮廷図書館があった。若いイブン・スィーナーは、アミールの病を治した褒美に、この図書館に入ることを許されたと自伝に書いている。部屋ごとに分野の違う書物が収められ、名前も聞いたことのない本が並んでいたという。

町の墓地には、一族の霊廟が残っている。イスマーイール・サーマーニー廟と呼ばれ、10世紀の前半に建てられた。焼きレンガを編み物のように組んで模様を作った小さな建物で、中央アジアに残るイスラーム建築として最も古いものの一つである。のちに土に埋もれていたため、モンゴルの破壊を免れたと語られる。

サーマーン朝の銀貨は、北の交易路を通って、ヴォルガ川からバルト海、スカンディナヴィアまで運ばれた。北ヨーロッパの各地から、何万枚というイスラームの銀貨が掘り出されている。毛皮や奴隷が南へ、銀が北へ流れたのである(キエフ・ルーシの改宗の国が生まれたのも、この交易路の上だった)。

キエフ・ルーシの改宗に関わる図版:Lebedev baptism
キエフ・ルーシの改宗Wikimedia Commons Klavdy Lebedev · Public domain

その奴隷の中には、北の草原から連れてこられたトルコ系の若者がいた。サーマーン朝は彼らを買って兵士に育て、軍の中核にした。やがて奴隷出身の将軍たちが力を持ち、10世紀の後半には、その一人アルプテギーンがアフガニスタンのガズナに拠って自立する。ここから生まれたガズナ朝は、マフムード・ガズナウィーのもとで大国になった。北からは、イスラームを受け入れたトルコ系のカラハン朝が迫った(カラハン朝のイスラーム受容)。999年、カラハン朝の軍がブハラに入り、サーマーン朝の領土はアム川を境に、北をカラハン朝、南をガズナ朝が分け取った。875年から数えて124年である。

ブハラはその後、トルコ系の王たちの都になった。だが、宮廷の言葉、詩と歴史を書く言葉としてのペルシア語は残り、ガズナ朝もセルジューク朝も、のちにはインドのムガル帝国までがペルシア語を使った。イラン系の人々がイスラームの中で自分たちの言葉を取り戻した時代として、サーマーン朝はいまも記憶されている。タジキスタンは通貨の名をソモニとし、首都ドゥシャンベの広場にはイスマーイールの像が立っている。

同じ時代のできごと

プランバナンの造営AD856年頃藤原良房の摂政AD858年ルーシの成立AD862年スラヴ語への伝道AD863年ブルガリアの改宗AD864年大異教軍のイングランド上陸AD865年応天門の変AD866年(貞観8年)閏3月ハフルスフィヨルドの戦いAD872年頃
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