フランシス・パーキンズ
概要
マサチューセッツの生まれ。1911年3月25日、友人宅でお茶を飲んでいて騒ぎを聞き、通りへ出て、トライアングル工場から人が落ちてくるのを見た。以後、労働の安全に生涯を費やした。ニューヨーク州の工場調査委員会で三十を超える法を作らせ、州の労働長官を経て、1933年、合衆国初の女性閣僚となる労働長官に就いた。十二年在任し、社会保障法、公正労働基準法、最低賃金、週四十時間、児童労働の禁止を実現した。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
トライアングル・シャツウエスト工場の火災AD1911年3月25日 · 通りで見ていた本文
フランシス・パーキンズは1880年4月10日、マサチューセッツ州のボストンに生まれ、近くの工業の町ウースターで育った。本名はファニー・コラリー・パーキンズ。家は中流で、共和党を支持し、会衆派の教会に通っていた。父は文房具の商いを営んでいた。のちに彼女は名をフランシスと改める。男とも女ともとれるこの名を選んだのは、名前だけで女性と分からないようにするためでもあった、とされる。

1902年、彼女はマウント・ホリヨーク大学を卒業した。専攻は化学と物理である。在学中、経済史の授業で近くの工場を見学し、労働の現場を初めて目にした。ニューヨークの貧しい移民の暮らしを写真と文章で暴いたジェイコブ・リースの本にも強い衝撃を受けた。
卒業後、彼女は教師をしながら、シカゴのハル・ハウスに通った。社会改革家ジェーン・アダムズが貧しい移民の町の真ん中に開いた施設で、教育や保育や法律の相談を引き受けていた。のちにニューヨークのコロンビア大学で経済学と社会学を学び、1910年に修士号を得た。論文は、マンハッタンの貧しい地区ヘルズ・キッチンで栄養の足りない子どもたちを、家を一軒ずつ訪ねて調べたものだった。同じ1910年、彼女はニューヨーク消費者連盟の責任者となり、州議会に通って働きかける仕事を始めた。女性の労働時間を週54時間までに制限する法律を、1912年に通している。

1911年3月25日、土曜日の午後。彼女はワシントン・スクエアに面した友人の家で、お茶を飲んでいた。通りから叫び声が聞こえ、外へ走り出ると、近くの縫製工場のビルから煙が上がっていた。トライアングル・シャツウエスト社の工場である(トライアングル・シャツウエスト工場の火災)。出口の扉は、盗みや勝手な休憩を防ぐため鍵がかけられ、非常階段は崩れ落ちた。上の階から、火に追われた若い女性たちが次々に飛び降りてくるのを、彼女はなすすべもなく見ていた。146人が死んだ。多くは10代から20代の移民の娘たちで、最も若い犠牲者は14歳だった。彼女はのちに、ニューディールはあの日に始まったのだ、と語っている。
火事のあと、ニューヨーク州は工場を調べる委員会を作り、彼女は調査の中心となって働いた。委員会を率いる州議会の政治家アル・スミスとロバート・ワグナーを、夜明けに缶詰工場へ連れて行き、子どもたちが働く姿を見せた。狭いはしごのような非常階段を、自分たちの足で降りてもらった。報告書を読ませるより見せたほうが早い、というのが彼女のやり方だった。委員会の働きで、数年のうちに30を超える法律ができた。1919年、彼女はニューヨーク州の工業委員会の委員になり、1929年には州知事フランクリン・ローズヴェルトのもとで、州の労働の責任者になった。

1932年、フランクリン・ローズヴェルトが大統領に選ばれると、彼女に労働長官の職を打診した。彼女は引き受ける条件を紙に書いて持って行った。失業保険、老人への年金、子どもの労働の禁止、最低賃金、労働時間の上限、公共事業による雇用、仕事中のけがへの補償、そして健康保険。これを実現するつもりがないなら受けない、と彼女は言った。ローズヴェルトは、やると答えた。1933年3月4日、彼女は合衆国で最初の女性の閣僚になった。
在任は12年に及び、歴代で最も長い労働長官になった。世界恐慌の底で始まったニューディールの中心に、彼女はいた。1935年の社会保障法では、法案を練る委員会の長を務めた。老人への年金と失業保険と困窮者への扶助を柱とするこの法律は、アメリカの福祉の土台になった。1938年の公正労働基準法は、時給25セントの最低賃金を定め、労働時間を段階的に週40時間までに縮め、子どもを働かせることを禁じた。若者を植林や治水の仕事につかせる事業や、労働者が組合を作る権利を守る法律にもかかわった。紙に書いた条件のうち、実らなかったのは健康保険だけだった。アメリカはいまも、国民すべてを覆う公的な健康保険を持たないままである。

攻撃も激しかった。閣議で発言を無視されたという記録がある。彼女はわざと地味な服を着て三角の帽子をかぶった。男たちが母親を思い出すように、とのちに語っている。1939年には下院で彼女を弾劾しようとする動きがあった。共産主義者だと非難された労働運動家の国外退去を、裁判の結果を待つべきだとして急がなかったことが理由だった。弾劾は退けられたが、彼女は深く傷ついた。ナチスから逃れようとするユダヤ人の難民の受け入れを広げようともしたが、国務省と議会の壁に阻まれた。
私生活について、彼女はほとんど語らなかった。夫ポール・ウィルソンは心の病を抱え、人生の後半の多くを施設で過ごした。彼女は働いてその費用を払い続けた。職を辞められなかった理由の一つでもあった。結婚後も、彼女は自分の姓を名乗り続けた。

1945年にローズヴェルトが死ぬと、彼女はほどなく労働長官を退いた。その後は連邦政府の公務員の制度を監督する委員を務め、晩年はコーネル大学で労働と社会の問題を教えた。1965年5月14日、彼女はニューヨークで死んだ。85歳だった。
いまアメリカで、年金の小切手を受け取る人、最低賃金で働く人、週末に休む人。その仕組みの多くは、彼女の署名のもとで作られた。1980年、ワシントンの労働省の本部の建物は、彼女の名をとって名づけられた。あの日、通りから見上げた火の中の窓が、彼女の仕事の出発点だった。