国境なき医師団
概要
ビアフラ戦争で、赤十字を通じて派遣されたフランスの医師たちは、封鎖された土地で子どもが飢えて死んでいくのを見た。赤十字は、どの陣営にも入れてもらうために、見たことを外で語らない決まりを守っていた。医師の一部は、黙っていることが虐殺の手助けになると考え、帰国して声を上げた。1971年、彼らと、医学雑誌の記者たちが、パリで新しい団体を作った。国境や政府の許しにとらわれずに入り、手当てをし、見たことを証言する。中立を守るのか、語るのか。同じ人道の中に、二つの考え方ができた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
1967年、ナイジェリアの東部が「ビアフラ共和国」として独立を宣言した(ビアフラ戦争)。連邦政府軍はこれを囲み、海を封鎖し、陸の道も断った。食べ物が入らなくなった。腹がふくれ、手足が枯れ枝のように痩せた子どもたちの写真が、世界の新聞とテレビに流れた。飢えは戦争の武器として使われていた。犠牲者の数ははっきりしないが、戦争中に飢えと病で死んだ人は数十万から百万を超えるとも推計されている。
1968年、赤十字国際委員会の呼びかけに応じて、フランス赤十字を通じた医師団がビアフラに入った。その中に、のちにフランスの外務大臣にもなる若い医師ベルナール・クシュネルがいた。彼らが見たのは、毎日のように子どもが死んでいく病棟であり、爆撃される病院であり、封鎖そのものが人を殺している現実だった。

赤十字には守るべき決まりがあった。現地で見たことを、外で公に語らない。語れば、その国の政府は次から赤十字を入れてくれないかもしれない。入れなければ、誰も助けられない。どの陣営にも肩入れしない中立こそが、戦場の両側に入れてもらうための条件だった。この考え方には長い経験の裏付けがあったが、重い影もあった。赤十字国際委員会は第二次世界大戦中、ナチスの収容所で何が起きているかをある程度知りながら、公に非難しなかった。委員会自身ものちにその事実を認め、向き合うことになる。
クシュネルたちは、フランスに帰ってから語った。新聞に書き、テレビに出て、ビアフラで起きているのはジェノサイドだと訴えた。赤十字の決まりを破ったのである。黙っていることは、起きていることに手を貸すことになる。それが彼らの考えだった。ただし、ビアフラの惨状をジェノサイドと呼ぶことには、当時もいまも異論がある。独立を宣言した側が国際世論を味方に付けるため、その言葉を広めた面もあったと指摘されている。語ることにも危うさはあった。

同じころ、別の流れも生まれていた。1970年11月、東パキスタン(いまのバングラデシュ)を巨大なサイクロンが襲い、数十万人が死んだ。フランスの医学雑誌『トニュス』の記者たちは、災害が起きればすぐに駆けつけられる医師を集めようと誌上で呼びかけた。
1971年12月22日、パリで二つの流れが合流した。ビアフラから帰った医師たちと、雑誌の呼びかけに集まった医師、そして記者たち、あわせて13人ほどが、新しい団体「国境なき医師団」を作った。掲げた考え方は三つある。国境や政府の許しにとらわれずに、助けの要る場所へ行く。人種や宗教、政治の立場を問わずに手当てをする。そして、見たことを証言する。この「証言」は、のちに団体の柱の一つになっていく。

初めのころの国境なき医師団は小さかった。医師の名簿を持ち、要請があれば人を送り出す程度の団体だった。転機は1970年代の終わり、インドシナの難民である。カンボジアやベトナムから逃れた人々の救援で、団体は現場の組織として大きくなった。同時に、内部では進む方向をめぐって意見が割れた。1979年、南シナ海の難民を船で救おうとする計画をめぐる対立をきっかけにクシュネルは団体を離れ、翌年、別の団体「世界の医師団」を作った。
国境なき医師団はその後、世界でも有数の規模の医療援助団体に育った。戦場、難民の宿営地、伝染病の流行地へ、医師と看護師と物資を送る。資金の多くを個人の寄付でまかない、政府から距離を置くことで、言うべきことを言える立場を守ろうとしてきた。1999年、団体はノーベル平和賞を受けた。受賞の講演で、当時の代表はロシア軍のチェチェン攻撃を名指しで非難している。

こうして、同じ人道援助の中に二つの考え方が並び立つことになった。一つは、中立を守り、黙って入り続けること。もう一つは、入れなくなる危険を冒してでも、見たことを知らせること。どちらが正しいとは言い切れない。赤十字国際委員会も、いまでは重大な違反について公に語ることがある。国境なき医師団も、現場の人々を守るため、あえて語らずにとどまる道を選ぶ場面がある。二つの考え方は、互いに相手を映す鏡のように、緊張を保ったまま共に働いている。
赤十字の出発点となった『ソルフェリーノの思い出』の著者アンリ・デュナンは、1901年、最初のノーベル平和賞を受けている(ノーベル賞の始まり)。戦場を通りがかった一人の商人が始めたことが、百年のうちに二つに分かれ、なお同じ問いを抱えて続いている。助けるために黙るのか、助けるために語るのか、という問いである。