人物

エラトステネス

Eratosthenes
BC276年頃 – BC194年頃(享年82・推定)
プトレマイオス朝エジプト重要度 4

概要

井戸の影の差から地球の大きさを計算した。誤差は数パーセントに収まる。

所属

プトレマイオス朝エジプト

関わったできごと(1)

地球の大きさが測られるBC240年頃 · 当人

本文

エラトステネスは紀元前276年ごろ、北アフリカのキュレネ(いまのリビア東部)に生まれた。キュレネはギリシア人が建てた古い植民市で、当時はエジプトのプトレマイオス朝の勢力圏にあった。若い頃にアテナイへ出て、哲学の学派を渡り歩きながら学び、詩や文学の研究でも名を知られるようになった。

エラトステネス
エラトステネスWikimedia Commons Public domain

紀元前245年ごろ、エジプト王プトレマイオス3世に招かれて、都アレクサンドリアへ移った(プトレマイオス朝)。アレクサンドロス大王が建てたこの町には(アレクサンドリア建設)、王家が学者を集めて養う研究所ムセイオンと、地中海世界の書物を集めた大図書館があった(アレクサンドリアの図書館)。エラトステネスは王子の教育係を務め、やがて図書館の館長となった。シチリアのアルキメデスとは手紙を交わす間柄で、アルキメデスは自分の発見した方法を説いた書物を、エラトステネスに宛てて書き送っている。

エラトステネスの名を最も高めたのは、地球の大きさの測定である(地球の大きさが測られる)。彼自身の著作は失われ、方法は後の時代の天文学の教科書に要約されて伝わっている。エジプトの南の町シエネ(いまのアスワン)では、夏至の日の正午、太陽が真上に来て、立てた棒に影ができない。深い井戸の底まで日の光が届くという話も伝えられる。同じ日の同じ時刻に、北にあるアレクサンドリアで棒の影を測ると、太陽は真上から円周の50分の1、角度にして7度あまり傾いていた。地球が球で、太陽の光が平行に届くとすれば、この傾きの差は、二つの町の間の弧が地球の中心に対して作る角度に等しい。二つの町の距離は5000スタディオンとされていたから、地球の一周はその50倍、25万スタディオンになる。のちに彼はこれを25万2000スタディオンと改めた。

19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図
19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図Wikimedia Commons Edward Bunbury / Eratosthenes · Public domain

この値が現代の値とどれほど近いかは、彼の使ったスタディオンが何メートルだったかによる。1スタディオンを約157メートルとすれば誤差は1、2パーセントにとどまり、185メートルとすれば15パーセントあまり大きくなる。どの長さを使ったかについては、研究者の間で決着がついていない。シエネとアレクサンドリアが同じ経線の上に無いことや、距離の値そのものが大まかなことも、誤差のもとになっている。それでも、棒と影と幾何学だけで、行ったこともない地球の全体の大きさを、正しい桁で求めてみせた方法そのものが画期的だった。

エラトステネスの仕事は、驚くほど幅が広かった。数学では、素数を見つける方法を考えた。2から順に数を並べ、2の倍数を消し、3の倍数を消し、残った数の倍数を次々に消していくと、最後に素数だけが残る。ふるいにかけるように数を選り分けるので、エラトステネスの篩と呼ばれる。立方体の体積をちょうど2倍にする辺の長さを求めるという、古くからの難問を解くための器具も作り、その証明を刻んだ記念碑を奉納した。天文学では、地球の自転軸の傾き(黄道傾斜)を測り、星座にまつわる神話を集めた。

ベルナルド・ストロッツィ画『アレクサンドリアで教えるエラトステネス』(1635年)
ベルナルド・ストロッツィ画『アレクサンドリアで教えるエラトステネス』(1635年)Wikimedia Commons Bernardo Strozzi · Public domain

地理学でも先駆けとなった。『地理書』3巻を著し、ギリシア人が知っていた世界、西のイベリア半島から東のインドまでの地図を描いた。その地図に、ロドス島を通る東西の線と、それに直交する南北の線を基準として引き、土地の位置を網の目の中に示そうとした。経線と緯線の考え方の先駆けである。ナイル川の夏の増水が、上流の土地に降る大雨によるものであることも論じている。地理学を表すギリシア語の言葉を最初に使ったのも彼だとされる。

さらに、歴史の年代を定める仕事にも取り組んだ。オリンピア競技の優勝者の一覧や、スパルタの王の系譜などを手がかりに、トロイア戦争(伝承)の陥落からアレクサンドロス大王の死までの出来事に年代を割り振った。トロイア陥落を、いまの暦でいえば紀元前1184年にあたる年に置いた彼の年表は、その後の古代の歴史家たちの基準になった。

トロイア戦争(伝承)に関わる図版:Akhilleus Patroklos Antikensammlung Berlin F2278
トロイア戦争(伝承)Wikimedia Commons Sosias (potter, signed). Painting attributed to the Sosias Painter (name piece for Beazley, overriding attribution) or t · Public domain

あまりに多くの分野に手を広げたため、同時代の人々は彼に「ベータ」というあだ名をつけた。ギリシア語の二番目の文字で、どの分野でも一番手ではない、という皮肉である。五種競技の選手を意味する「ペンタトロス」とも呼ばれた。どれか一つを極めるより、何でもこなす人、という意味である。ただ、地球を測り、世界の地図に網の目をかけ、歴史に年代の物差しを当てたことは、どれも世界をまるごと測ろうとする同じ志から出ていた。

後の時代の辞典によれば、エラトステネスは80歳を過ぎて目が見えなくなり、本を読むことも星を見ることもできなくなったのを嘆いて、食を断って死んだという。紀元前194年ごろのことと考えられている。

フィリップ・ダニエル・リッパートによるエラトステネスの肖像(1767年の版画)
フィリップ・ダニエル・リッパートによるエラトステネスの肖像(1767年の版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

彼の求めた地球の大きさは、その後も議論され続けた。後の時代には、もっと小さい値も唱えられ、2世紀のクラウディオス・プトレマイオスの地理書はそうした小さい値をもとにしていた。15世紀、コロンブスは、地球を小さく、アジアの東の端を大きく見積もった値を信じて、西へ航海すればアジアにすぐ着けると考えた。エラトステネスの値を信じていたら、この航海は無謀に見えたはずである。結果として、コロンブスは見込み違いのまま、途中にあった大陸に行き当たった。

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