生類憐みの令
概要
綱吉が、犬、鳥、魚、虫を殺すな、と何十回も出した。捨て子と病人と牛馬の遺棄の禁止から始まって、犬の殺傷は死罪、中野に犬小屋16万坪、犬10万匹。江戸の人は「犬公方」と言った。綱吉が死んだ10日後に廃止。近年は、戦国の殺す文化を変えた、と評価する人もいる。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
徳川綱吉AD1646年2月23日–AD1709年2月19日 · 出した本文
5代将軍徳川綱吉が出した「生類憐みの令」は、一つの法律の名前ではない。1680年代の半ばから綱吉が死ぬ1709年まで、20年余りのあいだに出された、生き物の扱いに関する多くの触れ書きをまとめて呼ぶ後の時代の言い方である。数は135回ほどとも言われる。始まりの年も、1685年とする見方と1687年とする見方がある。
初めのころの触れは、将軍が通る道に犬や猫が出てきても構わない、というものだった。続いて、病気の牛馬を捨てることが禁じられ、生きた魚や鳥、亀や貝を食べるために売ることが禁じられた。犬については特に細かく、犬を殺したり傷つけたりすれば重い罰を受け、町ごとに犬の毛色や特徴を書き上げた帳面が作られた。野犬が増えると、幕府は江戸の郊外に犬の収容所を作った。1695年に作られた中野の犬小屋は16万坪から始まってのちに広げられ、8万匹を超える犬を養ったとされる。その費用は、江戸の町人や関東の村々に割り当てられた。

対象は動物だけではなかった。捨て子をしてはならない、病人を捨ててはならない、行き倒れの旅人を見つけたら世話をせよ、という触れも同じ流れの中で出されている。生まれた子を間引くことや、身寄りのない病人を道ばたに置き去りにすることは、当時は珍しくなかった。
なぜ綱吉がこれほどの触れを出したのか。江戸時代の後の記録には、跡継ぎの徳松を失った綱吉に、母の桂昌院が信頼する僧の隆光が、前世の殺生の報いだから生き物を憐れむようにと勧め、とくに戌年生まれの綱吉には犬を大切にせよと言った、という話が伝わる。しかし隆光が江戸に来たのは最初の触れが出た後で、隆光自身の日記にもそうした記述はなく、この話はいまでは疑われている。
近年の研究は、綱吉の政治全体の中でこの触れを読み直している。綱吉は儒学を深く学び、自ら家臣に講義をするほどだった。仏教の慈悲と儒学の「仁」を政治で実現しようとし、戦国の世から続く、人や生き物の命を軽く扱う気風を改めようとしたのだ、という見方である。死や血の穢れを避ける期間を定めた服忌令も、綱吉の時代に整えられた。同じころ、武士が町で刀を振るう「かぶき者」の取り締まりも強められている。
綱吉は、将軍家の行事として続いてきた鷹狩りもやめさせ、鷹を飼う役所を縮め、飼われていた鷹を放した。武家の権威を示す狩りを将軍みずから捨てたことは、殺生を嫌う方針が本気だったことを示している。鷹狩りが将軍の行事として復活するのは、のちの8代将軍徳川吉宗のときである。
それでも、江戸の人々にとって負担は重かった。犬を傷つけたとして処罰された例は実際にあり、密告もあった。蚊を叩いて罰せられた、鳥を撃って死罪になった、といった話は大げさに語り伝えられた面もあるが、人より犬が大事にされているという不満は広がり、綱吉は陰で「犬公方」と呼ばれた。綱吉の治世は元禄文化の華やかな時代でもあったが、幕府の財政は苦しくなり、貨幣の改鋳で物価も上がっていた。

1709年1月、綱吉は63歳で亡くなった。綱吉は死の床で、この触れだけは自分の死後も続けるようにと言い残したと伝えられる。しかし6代将軍家宣は、綱吉の死後まもなく、犬の収容所の廃止を含めて触れの多くを取りやめた。家宣のもとで政治の相談役となったのが新井白石である。牛馬の遺棄や捨て子の禁止など一部は、その後も残された。
生類憐みの令は長く、将軍の気まぐれが生んだ悪法の代表として語られてきた。いまも東京の中野区役所の前には、犬の像が置かれ、かつてそこに犬小屋があったことを伝えている。一方で、捨て子や病人の扱いを改めさせたことに注目し、命を大切にする考え方を社会に根づかせる転機になったと評価する研究者もいる。評価は、いまも分かれている。