できごと

『大日本史』の編纂開始

Dai Nihonshi
AD1657年(明暦3年)
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国中央アジアの諸ハン国清チベットチュクチ明の滅亡後の軍閥アユタヤ朝Avaシャン諸邦Koryaks日本大越朝鮮王朝Itelmenラオスの諸国大越フィリピンカンボジアLan NaアイヌモシリAD1657年(明暦3年)水戸
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概要

徳川光圀が江戸駒込の別邸に史局を置いて、神武天皇から後小松天皇まで、紀伝体で。明の遺臣朱舜水を招いた。250年。1906年に完成、397巻。大友皇子を天皇に、神功皇后を后妃に、南朝を正統に。この三つの判断から水戸学が出て、幕末の尊王が出た。作った家が、倒される側になった。

場所

水戸
36.37°N 140.47°E · 茨城県水戸市

関わった人(1)

徳川光圀AD1628年7月11日–AD1701年1月14日 · 始めた

本文

水戸藩主の家に生まれた徳川光圀は、若いころ乱暴な振る舞いが多かったと伝えられる。18歳のとき、司馬遷の『史記』の伯夷伝を読んで心を改めた、と自ら語った。伯夷と叔斉の兄弟が互いに位を譲り合った話である。光圀は兄の頼重をさしおいて世継ぎにされていたことを恥じ、のちに自分の跡を兄の子に継がせた。歴史を書くという志も、この読書から生まれたとされる。

1657年(明暦3年)、江戸に大火が起きたこの年に、光圀は駒込の別邸に史局を置き、日本の通史の編纂を始めた。30歳で、まだ藩主になる前のことだった。1672年には史局を小石川の上屋敷に移し、「彰考館」と名付ける。過去を明らかにして未来を考える、という意味の名である。光圀は、明が滅んで日本へ逃れてきた儒学者朱舜水を水戸藩に招き、その学問からも大きな影響を受けた。

弘道館所蔵の大日本史
弘道館所蔵の大日本史Wikimedia Commons Papakuro at Japanese Wikipedia · CC BY 3.0

書き方は、『史記』にならった紀伝体である。天皇の事績を年代順に記す本紀、后妃や皇子、臣下の伝記を集めた列伝、制度を記す志、表から成る。扱う範囲は神武天皇から、南北朝が合一した後小松天皇までとした。史料を集めるため、学者たちが各地の寺社や旧家を訪ねて古文書を写した。その中心にいた佐々宗淳(介三郎)と安積澹泊(覚兵衛)は、のちに講談の「水戸黄門漫遊記」で助さん、格さんのもとになった。ただし光圀自身は、諸国を巡り歩いてはいない。

同じころ、幕府も歴史書を作っていた。儒学者の林鵞峰が1670年に完成させた『本朝通鑑』は、年を追って出来事を記す編年体で、幕府の公式の歴史だった。光圀がわざわざ紀伝体を選び、人物一人一人の伝を立てたのは、誰が正しく誰が道に背いたかを、人の生き方として示したかったからだと考えられている。歴史を、道徳と正しさの物差しで裁く。その姿勢が、のちの水戸学の性格を決めた。

この本には、とりわけ大きな三つの判断があり、「三大特筆」と呼ばれる。第一に、壬申の乱で敗れた大友皇子を天皇と認めて本紀に立てた(明治になって弘文天皇と追号される)。第二に、それまで天皇の一人として扱われることの多かった神功皇后を、后妃の伝に入れた。第三に、南北朝時代について南朝を正統とし、後醍醐天皇の流れを本紀に立てた。これにより、足利尊氏は朝廷に背いた者、楠木正成は忠臣として描かれることになる。

壬申の乱に関わる図版:Omi Otsu-no-miya, dairi-seiden-ato
壬申の乱Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

光圀は1700年に死んだが、編纂は藩の事業として続いた。1715年に『大日本史』という書名が定まり、本紀と列伝は1720年に幕府へ献上された。志と表の作業は大幅に遅れ、幕末を越え、明治の世になっても続いた。全397巻が完成したのは1906年(明治39年)で、始めてから250年近くがたっていた。

編纂の中で育った学問は「水戸学」と呼ばれる。18世紀の終わりから、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖らが、天皇を尊び、外国を打ち払うことを説いた。会沢の『新論』は、外国船が日本の近海に現れはじめた時代に、国の体制を論じて、各地の志士に読まれた。吉田松陰は水戸を訪れて会沢に会っている。1860年の桜田門外の変で大老を討った者の多くは、水戸の浪士だった。

徳川光圀の肖像
徳川光圀Wikimedia Commons 狩野常信 · Public domain

徳川の御三家の一つが、天皇を中心とする歴史を書いた。その歴史観は、尊王の思想を育て、やがて幕府を倒す側の論理になる。最後の将軍徳川慶喜は水戸の徳川家の出で、尊王の教えのなかで育った。大政を朝廷に返した決断にも、その影響を見る人は多い。

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