『大日本史』の編纂開始
概要
徳川光圀が江戸駒込の別邸に史局を置いて、神武天皇から後小松天皇まで、紀伝体で。明の遺臣朱舜水を招いた。250年。1906年に完成、397巻。大友皇子を天皇に、神功皇后を后妃に、南朝を正統に。この三つの判断から水戸学が出て、幕末の尊王が出た。作った家が、倒される側になった。
場所
36.37°N 140.47°E · 茨城県水戸市
関わった人(1)
徳川光圀AD1628年7月11日–AD1701年1月14日 · 始めた本文
水戸藩主の家に生まれた徳川光圀は、若いころ乱暴な振る舞いが多かったと伝えられる。18歳のとき、司馬遷の『史記』の伯夷伝を読んで心を改めた、と自ら語った。伯夷と叔斉の兄弟が互いに位を譲り合った話である。光圀は兄の頼重をさしおいて世継ぎにされていたことを恥じ、のちに自分の跡を兄の子に継がせた。歴史を書くという志も、この読書から生まれたとされる。
1657年(明暦3年)、江戸に大火が起きたこの年に、光圀は駒込の別邸に史局を置き、日本の通史の編纂を始めた。30歳で、まだ藩主になる前のことだった。1672年には史局を小石川の上屋敷に移し、「彰考館」と名付ける。過去を明らかにして未来を考える、という意味の名である。光圀は、明が滅んで日本へ逃れてきた儒学者朱舜水を水戸藩に招き、その学問からも大きな影響を受けた。
書き方は、『史記』にならった紀伝体である。天皇の事績を年代順に記す本紀、后妃や皇子、臣下の伝記を集めた列伝、制度を記す志、表から成る。扱う範囲は神武天皇から、南北朝が合一した後小松天皇までとした。史料を集めるため、学者たちが各地の寺社や旧家を訪ねて古文書を写した。その中心にいた佐々宗淳(介三郎)と安積澹泊(覚兵衛)は、のちに講談の「水戸黄門漫遊記」で助さん、格さんのもとになった。ただし光圀自身は、諸国を巡り歩いてはいない。
同じころ、幕府も歴史書を作っていた。儒学者の林鵞峰が1670年に完成させた『本朝通鑑』は、年を追って出来事を記す編年体で、幕府の公式の歴史だった。光圀がわざわざ紀伝体を選び、人物一人一人の伝を立てたのは、誰が正しく誰が道に背いたかを、人の生き方として示したかったからだと考えられている。歴史を、道徳と正しさの物差しで裁く。その姿勢が、のちの水戸学の性格を決めた。
この本には、とりわけ大きな三つの判断があり、「三大特筆」と呼ばれる。第一に、壬申の乱で敗れた大友皇子を天皇と認めて本紀に立てた(明治になって弘文天皇と追号される)。第二に、それまで天皇の一人として扱われることの多かった神功皇后を、后妃の伝に入れた。第三に、南北朝時代について南朝を正統とし、後醍醐天皇の流れを本紀に立てた。これにより、足利尊氏は朝廷に背いた者、楠木正成は忠臣として描かれることになる。

光圀は1700年に死んだが、編纂は藩の事業として続いた。1715年に『大日本史』という書名が定まり、本紀と列伝は1720年に幕府へ献上された。志と表の作業は大幅に遅れ、幕末を越え、明治の世になっても続いた。全397巻が完成したのは1906年(明治39年)で、始めてから250年近くがたっていた。
編纂の中で育った学問は「水戸学」と呼ばれる。18世紀の終わりから、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖らが、天皇を尊び、外国を打ち払うことを説いた。会沢の『新論』は、外国船が日本の近海に現れはじめた時代に、国の体制を論じて、各地の志士に読まれた。吉田松陰は水戸を訪れて会沢に会っている。1860年の桜田門外の変で大老を討った者の多くは、水戸の浪士だった。

徳川の御三家の一つが、天皇を中心とする歴史を書いた。その歴史観は、尊王の思想を育て、やがて幕府を倒す側の論理になる。最後の将軍徳川慶喜は水戸の徳川家の出で、尊王の教えのなかで育った。大政を朝廷に返した決断にも、その影響を見る人は多い。