できごと

水の法廷

Water Tribunal of the plain of Valencia
AD1238年ごろ
重要度 3
北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族西アフリカの穀作農民クマン(キプチャク)ベルベル諸部族アイユーブ朝キエフ・ルーシブワイフ朝ファーティマ朝神聖ローマ帝国サーミそのほかのルーシ諸公国ノルウェーイファト王国ムワッヒド朝ノヴゴロド公国マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ルーム・セルジューク朝ポーランド王国フランス王国スウェーデンマリ帝国ブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国アルワガーリチ=ヴォルィーニ公国東ローマ帝国カネムガーナアルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de Toulouseリトアニア大公国デンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドTakrurジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1238年ごろバレンシア
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概要

バレンシアの周りの平野には、ムスリムの時代に掘られた用水路が網の目のように走っていた。1238年に町を征服したアラゴン王ハイメ一世は、水の分け方を「サラセン人の時代のとおりに」続けるよう認めた。用水路ごとに農民が選ぶ代表が集まり、水の盗みや順番の争いを裁く。いまも木曜の正午、大聖堂の使徒の扉の前に八人の代表が座り、その場で訴えを聞いて、その場で裁く。書類も弁護士もなく、言葉はバレンシア語である。判決は、それでも守られてきた。守るのは、同じ水路の下流と上流に住む隣人だからである。

場所

バレンシア
39.47°N -0.38°E · スペイン

本文

地中海に面したスペイン東部の町バレンシアの周りには、平らな沃野が広がっている。土地の言葉で「ウエルタ」と呼ばれる。菜園や果樹園という意味で、いまもオレンジや米や野菜の畑が続く。この地方は雨が少なく、夏は長く乾く。畑を潤す水は、町のそばを流れるトゥリア川から引いている。川の上手で取り入れられた水は、何本もの用水路に分かれ、さらに細い水路へと枝分かれしながら、平野を網の目のように潤していく。

この用水の網を掘ったのは、ムスリムが治めていた時代の人々だと考えられている。8世紀の初めから13世紀まで、バレンシアはイスラームの町だった。コルドバのカリフ宣言の時代を経て、いくつもの小王国の都となり、11世紀の終わりにはエル・シドのバレンシア占領で一時キリスト教徒の手に渡ったこともある。用水路の造りや水の分け方には、ローマ時代からの技術と、乾いた土地での灌漑に長けたアラブやベルベルの人々の知恵が重なっているとみられる。用水にかかわる言葉には、いまもアラビア語に由来するものが多い。用水路を指す「アセキア」もその一つである。

ベルナルド・フェランディスが描いた『水の法廷』(1865年)
ベルナルド・フェランディスが描いた『水の法廷』(1865年)Wikimedia Commons Bernardo Ferrándiz Bádenes · Public domain

1238年、アラゴンの王ハイメ1世がバレンシアを攻め落とした。ムスリムの住民の多くは町を去ったが、王は用水の決まりには手を付けなかった。征服の翌年以降に与えた特許状の中で、王は用水路の水を「サラセン人の時代に定められ、慣わされてきたとおりに」分けることを認めている。変えれば平野は干上がる。水の分け方を知っているのは、そこで耕してきた人々だけだった。征服者は土地を取っても、水の決まりは前の住民から受け継いだのである。

その決まりを守らせる場が、水の法廷である。いまも毎週木曜日の正午、バレンシア大聖堂の「使徒の扉」の前に、低い柵で囲まれた場所が作られ、椅子が並べられる。正午の鐘が鳴ると、黒い上着を着た8人の男たちが現れて席に着く。平野の主な8本の用水路それぞれの農民が選んだ代表である。

ローマ時代にバレンティアのシンボルだった「豊穣の角」
ローマ時代にバレンティアのシンボルだった「豊穣の角」Wikimedia Commons User:KillOrDie · Public domain

廷吏がバレンシア語で、用水路の名を一本ずつ挙げて「訴えはあるか」と呼びかける。訴えがあれば、訴えた者と訴えられた者がその場で前に出て、自分の言い分を話す。代表たちはその場で話を聞き、必要なら証人や見回り役に事情を尋ね、その場で判決を言い渡す。書類は作らない。弁護士もいない。判決に不服があっても、上へ訴え出る先は無い。訴えが無ければ、数分で終わる日も多い。

持ち込まれるのは、水の暮らしにかかわる争いである。自分の順番でないときに水路の堰を開けて水を引いた。決められた日に水路の掃除をしなかった。水を自分の畑から溢れさせて無駄に流した。隣の水路を傷めた。いずれも、乾いた土地では隣人の作物の生死にかかわることである。罰は主に罰金で、ひどい場合には水を止められることもある。

バレンシアをキリスト教徒の手に戻したアラゴン王ハイメ1世
バレンシアをキリスト教徒の手に戻したアラゴン王ハイメ1世Wikimedia Commons Manuel Aguirre y Monsalbe · Public domain

罰は軽い。それでも判決は守られてきた。裁く者も同じ水路を使う農民で、水の事情を誰よりもよく知っている。訴えた者も訴えられた者も、翌日からまた同じ水路の上流と下流で、隣どうしで耕し続ける。上流の者は下流の者に水を渡さなければならず、下流の者は上流の者が水路を守ってくれなければ困る。国の裁判所に持ち込むより早く、費用もかからず、何より、明日も顔を合わせる相手どうしで決着がつく。だから従う。

この法廷がいつ始まったかは、はっきりしない。ムスリムの時代、10世紀のコルドバのカリフの頃にさかのぼるという言い伝えもあり、千年続いた法廷と呼ばれることもある。ただ、文書にはっきりと姿を現すのはずっと後である。口で裁き、口で伝えてきた法廷なので、記録が残りにくかった。少なくとも、キリスト教徒の王のもとで用水の自治が認められてから、いまに至るまで続いていることは確かである。

近代国家の法も、この法廷を飲み込まなかった。スペインの憲法と司法の法律は、慣習に基づく法廷として水の法廷を認めている。2009年、バレンシアの水の法廷は、スペイン南東部ムルシアの用水の「賢人会議」とともに、ユネスコの無形文化遺産に登録された。観光客が大聖堂の前に集まり、カメラを向けるようになったが、法廷は今も実際の争いを裁いている。

水を分ける決まりは、上から降ってくるものではない。同じ水を使う者どうしが作り、守る。王も国家も、その決まりを認めることはできても、代わりに作ることはできなかった。遠く離れた日本の農村では、同じ問題を、水路の分かれ目の形そのもので解こうとした人々がいる(円筒分水)。裁く場を設けるか、争いの起きない形を作るか。どちらも、限られた水を隣人どうしで分け合うための知恵である。

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