できごと

ニュルンベルク綱領

The Nuremberg Code
AD1947年
重要度 5
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概要

ニュルンベルク継続裁判の「医師裁判」。強制収容所で行われた人体実験——低体温、与圧、海水、毒ガス、双子の研究——について、23人が裁かれ、7人が処刑された。判決文に添えられた10項目が、この綱領である。第一条「被験者の自発的な同意が、絶対に不可欠である」。1964年のヘルシンキ宣言、各国の倫理委員会、そして「インフォームド・コンセント」という語の系譜が、ここから始まる。

場所

ニュルンベルク
49.45°N 11.08°E · ドイツ・バイエルン州

本文

1945年11月から翌年10月まで、ドイツのニュルンベルクで、連合国はナチス・ドイツの主要な指導者たちを裁いた(ニュルンベルク裁判)。そのあと、アメリカは単独で、同じ法廷で12の裁判を続けて開いた。継続裁判と呼ばれる。その最初が、1946年12月に始まった医師裁判である。

被告は23人で、うち20人が医師だった。ナチス親衛隊の医官、空軍で航空医学を研究していた医師、大学の教授、そしてヒトラーの付き添いの医師で、障害者の「安楽死」計画の責任者でもあったカール・ブラント。彼らが問われたのは、強制収容所の被収容者を使った人体実験と、病人や障害者の殺害だった。

ニュルンベルク綱領を導いた米軍事裁判の主要被告、カール・ブラント
ニュルンベルク綱領を導いた米軍事裁判の主要被告、カール・ブラントWikimedia Commons USHMM · Public domain

法廷で明らかにされた実験は、どれも戦争の必要を名目にしていた。ダッハウの収容所では、高い空でパラシュートで脱出したときに人体がどこまで耐えられるかを調べるため、減圧室で気圧を極端に下げ、多くの被験者が死んだ。北海に落ちた飛行士の救い方を調べるため、人を氷水に何時間も浸けた。海水だけを飲ませて何日生きられるかを見る実験もあった。女性の収容所ラーフェンスブリュックでは、戦場の傷の感染に効く薬を試すため、主にポーランド人の女性の脚に傷を付け、木片やガラス片や細菌を詰め込んだ。マラリアや発疹チフスをうつし、毒やマスタードガスを試し、X線や薬で大勢の人を断種する方法を探った。殺した人々の骨格を大学の標本として集めようとした計画も、訴えの中にあった。

そして、障害のある人や精神病の患者を「生きるに値しない命」として殺した計画、T4作戦がある。ガス室での殺害の方法と人員は、のちにホロコーストの絶滅収容所へ引き継がれた。アウシュヴィッツで双子を使った実験をしたヨーゼフ・メンゲレは、この裁判のときには逃亡していて、南米で生涯を終えている。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

被告の弁護人たちは、こう主張した。人体実験について、国内にも国際的にも成文の決まりは無い。アメリカでも、刑務所の囚人にマラリアをうつす実験が戦争中に行われていた。戦時の国家の必要と命令に従っただけだ。検察の側も、この反論に答える必要があった。ナチスの医師たちがしたことは、単に残酷だったから罪なのではなく、医学の研究として許される一線を越えていたから罪なのだ、という基準を示さなければならなかった。検察の医学顧問を務めたアメリカの生理学者アンドルー・アイヴィと、精神科医レオ・アレクサンダーが、その基準の原案に深く関わったとされる。

1947年8月20日、判決が出た。16人が有罪、7人が無罪。死刑は7人で、カール・ブラントらは1948年6月2日に絞首刑となった。この判決文の中に、「許される医学実験」と題した一節があり、10の項目が並んでいた。これが、のちにニュルンベルク綱領と呼ばれるものである。

第一の項目が最も長く、最も引用される。被験者の自発的な同意が、絶対に欠かせない。その人が同意する法的な能力を持ち、力や欺きや脅しなどの強制を受けずに自由に選べる立場にあり、実験の性質、期間、目的、方法、予想される危険と不都合、健康への影響を十分に知り、理解したうえで決めなければならない。そして、同意が本物かどうかを確かめる責任は、実験を計画し、指揮し、行う一人ひとりにあり、他人に任せることはできない、という。

残りの九つは、次のようなことを定めている。実験は社会のためになる成果を目指し、ほかの方法では得られないものであること。動物実験や既にある知識をもとに計画すること。無用な苦痛や傷を避けること。死や重い障害が起きると予想される実験はしないこと。危険の大きさが、得られる成果の人道上の重みを超えないこと。適切な準備と設備を整え、資格のある者だけが行うこと。被験者はいつでも実験をやめられること。そして、危険が生じたと判断したら、実験する者は止めなければならないこと。

ニュルンベルク綱領は、法律ではない。一つの判決の一部であり、どの国も縛らなかった。しかも当初は、野蛮なナチスのための決まりで、文明国の医師には関係ない、と受け取られがちだった。実際、アメリカでは戦後も、本人に十分知らせないまま行われる研究が続いた。アラバマ州ではタスキーギ梅毒研究が1972年まで続いていた。1966年には、ハーバード大学の麻酔科医ヘンリー・ビーチャーが、権威ある医学雑誌に載った研究のうち倫理に問題のある22の例を挙げる論文を発表し、衝撃を与えた。

それでも、綱領の考えは少しずつ根を下ろしていった。1964年、世界医師会は研究の倫理の国際的な指針としてヘルシンキ宣言を採択し、その後も改訂を重ねている。アメリカでは1974年の法律で、人を対象とする研究に施設ごとの審査委員会の承認を義務づけた。研究の前に本人に説明して同意を得る「インフォームド・コンセント」という考えは、研究の場から日々の診療の場へと広がり、手術や検査の前の説明と同意書は、いまでは当たり前の手続きになった。

判決を書いた裁判官たちは、この10項目が世界の医学の規範になるとは、おそらく思っていなかった。ニュルンベルク綱領が教えるのは、医学の進歩という目的がどれほど大きくても、それが一人の人の体と意思を勝手に使う理由にはならない、ということである。その当たり前の一線は、医師たち自身が踏み越えた場所で、言葉にされた。

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