できごと

『学問のすゝめ』

An Encouragement of Learning
1872年 – 1876年
期間を持つできごと重要度 4
ロシア帝国大英帝国清スペイン帝国ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝フィリピンカンボジア1872年東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1872年の版図を描いています(11勢力)。

概要

「天は人の上に人を造らず」。300万部以上が読まれ、新しい世の考え方が広まった。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

関わった人(1)

福沢諭吉1835年–1901年 · 著者

本文

明治の初め、日本の世の中は急に変わっていた。1871年に藩が廃されて県が置かれ、武士の身分の特権はしだいに取り上げられていった。身分の別なく職業を選べるようになり、1872年には全国に学校を作る学制が公布された(学制の公布)。だが、多くの人々にとって、新しい世でどう生きればよいのかは、まだ見えていなかった。

福沢諭吉は、その問いに答えようとした一人だった。豊前中津藩の下級武士の家に生まれ、大坂の緒方洪庵の塾で蘭学を学び、幕府の使節に加わってアメリカとヨーロッパを見てきた。すでに『西洋事情』で西洋の制度を紹介し、江戸に開いた塾は慶應義塾となっていた。

福沢諭吉の肖像(1891年)
福沢諭吉の肖像(1891年)Wikimedia Commons Fukuzawa Research Center · Public domain

1872年の2月、『学問のすゝめ』の初編が出た。もとは故郷の中津に開く学校のために書いたもので、初編は塾の仲間の小幡篤次郎との共著の形をとっている。冒頭はよく知られている。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。人はみな生まれながらに同じで、貴賤上下の差別は無い、と言われている、という意味である。

だが、文はそこで終わらない。そうであるのに、いまの世の中を見渡すと、賢い人も愚かな人も、貧しい人も富んだ人も、身分の高い人も低い人もいる。その違いはどこから来るのか。福沢は、それは学ぶか学ばないかによって生まれる、と答える。冒頭の一句は「と言えり」で結ばれていて、福沢自身の言葉というより、世に言われていることとして引かれている。アメリカの独立宣言の考えを踏まえたものと見る説がある。平等の宣言として読まれがちだが、本の主題は、だからこそ学べ、という勧めにある。

長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書
長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書Wikimedia Commons 長崎の手彩色絵葉書 · Public domain

福沢の言う学問は、難しい古典を読んだり、詩を作ったりすることではなかった。いろはを覚え、手紙を書き、帳簿をつけ、そろばんを使い、地理や物の理、歴史や経済を学ぶ。日々の暮らしと仕事に役立つ「実学」こそが学問だ、と説いた。

本はその後も編を重ね、1876年の第17編まで続いた。第3編で福沢は、一身独立して一国独立す、と書いた。一人一人が自分の頭で考え、自分の力で暮らしを立てる気概を持たなければ、国もまた外国に対して独立を保てない。政府にばかり頼り、お上の言うことに従うだけの人々の国は、外国に侮られる、というのである。男と女のあいだの不公平を批判した編もある。

文久2年(1862年)、パリのフランス国立自然史博物館にて撮影)東京大学史料編纂所蔵
文久2年(1862年)、パリのフランス国立自然史博物館にて撮影)東京大学史料編纂所蔵Wikimedia Commons (1) en:User:PHG , (2) Philippe-Jacques Potteau (1807-1876) - Officer of the Japanese Embassy · Public domain

世間の反発を受けた箇所もあった。第7編で、国のために死ぬことの意味を論じて、南北朝時代の忠臣、楠木正成の討ち死にも、主人の金をなくして首をくくった下男の死も、世の役に立たない点では同じだ、という趣旨のことを書いた。これは楠公権助論と呼ばれて激しく非難され、福沢は匿名で弁明の文を新聞に出している。

本はよく売れた。1880年に全編を一冊にまとめて出したとき、福沢は序文で、一つの編がおよそ20万冊ずつ売れ、合わせて340万冊に達するだろう、と書いている。福沢自身の見積もりで、海賊版も含めた数だが、人口がおよそ3500万人の時代である。小学校の教科書として使われた編もあった。

『学問のすゝめ』は、身分の世から個人の努力の世へ移る時代の、手引きの書になった。一方で、福沢はのちに、アジアの国々との関係について厳しい論調の文章を書き、日清戦争を支持した。1885年の新聞の社説「脱亜論」は、彼の筆によるものとされてきた。一人一人の独立を説いた人が、国と国との関係では力の論理を説いた。その両方が同じ人から出ている。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

福沢の肖像は1984年から40年にわたって一万円札に使われた。いまも「天は人の上に」の一句は、明治の新しい時代の空気を伝える言葉として、多くの人が知っている(物語「明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ」)。

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