『学問のすゝめ』
概要
「天は人の上に人を造らず」。300万部以上が読まれ、新しい世の考え方が広まった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
福沢諭吉1835年–1901年 · 著者本文
明治の初め、日本の世の中は急に変わっていた。1871年に藩が廃されて県が置かれ、武士の身分の特権はしだいに取り上げられていった。身分の別なく職業を選べるようになり、1872年には全国に学校を作る学制が公布された(学制の公布)。だが、多くの人々にとって、新しい世でどう生きればよいのかは、まだ見えていなかった。
福沢諭吉は、その問いに答えようとした一人だった。豊前中津藩の下級武士の家に生まれ、大坂の緒方洪庵の塾で蘭学を学び、幕府の使節に加わってアメリカとヨーロッパを見てきた。すでに『西洋事情』で西洋の制度を紹介し、江戸に開いた塾は慶應義塾となっていた。

1872年の2月、『学問のすゝめ』の初編が出た。もとは故郷の中津に開く学校のために書いたもので、初編は塾の仲間の小幡篤次郎との共著の形をとっている。冒頭はよく知られている。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。人はみな生まれながらに同じで、貴賤上下の差別は無い、と言われている、という意味である。
だが、文はそこで終わらない。そうであるのに、いまの世の中を見渡すと、賢い人も愚かな人も、貧しい人も富んだ人も、身分の高い人も低い人もいる。その違いはどこから来るのか。福沢は、それは学ぶか学ばないかによって生まれる、と答える。冒頭の一句は「と言えり」で結ばれていて、福沢自身の言葉というより、世に言われていることとして引かれている。アメリカの独立宣言の考えを踏まえたものと見る説がある。平等の宣言として読まれがちだが、本の主題は、だからこそ学べ、という勧めにある。

福沢の言う学問は、難しい古典を読んだり、詩を作ったりすることではなかった。いろはを覚え、手紙を書き、帳簿をつけ、そろばんを使い、地理や物の理、歴史や経済を学ぶ。日々の暮らしと仕事に役立つ「実学」こそが学問だ、と説いた。
本はその後も編を重ね、1876年の第17編まで続いた。第3編で福沢は、一身独立して一国独立す、と書いた。一人一人が自分の頭で考え、自分の力で暮らしを立てる気概を持たなければ、国もまた外国に対して独立を保てない。政府にばかり頼り、お上の言うことに従うだけの人々の国は、外国に侮られる、というのである。男と女のあいだの不公平を批判した編もある。

世間の反発を受けた箇所もあった。第7編で、国のために死ぬことの意味を論じて、南北朝時代の忠臣、楠木正成の討ち死にも、主人の金をなくして首をくくった下男の死も、世の役に立たない点では同じだ、という趣旨のことを書いた。これは楠公権助論と呼ばれて激しく非難され、福沢は匿名で弁明の文を新聞に出している。
本はよく売れた。1880年に全編を一冊にまとめて出したとき、福沢は序文で、一つの編がおよそ20万冊ずつ売れ、合わせて340万冊に達するだろう、と書いている。福沢自身の見積もりで、海賊版も含めた数だが、人口がおよそ3500万人の時代である。小学校の教科書として使われた編もあった。
『学問のすゝめ』は、身分の世から個人の努力の世へ移る時代の、手引きの書になった。一方で、福沢はのちに、アジアの国々との関係について厳しい論調の文章を書き、日清戦争を支持した。1885年の新聞の社説「脱亜論」は、彼の筆によるものとされてきた。一人一人の独立を説いた人が、国と国との関係では力の論理を説いた。その両方が同じ人から出ている。

福沢の肖像は1984年から40年にわたって一万円札に使われた。いまも「天は人の上に」の一句は、明治の新しい時代の空気を伝える言葉として、多くの人が知っている(物語「明治・大正の文化 — 文明開化から大衆文化へ」)。