できごと

マッカーシズム

McCarthyism
AD1950年2月9日
重要度 4
マッカーシズムに関わる図版:Anticommunist Literature 1950s
Anticommunist Literature 1950s Wikimedia Commons Anticommunist_Literature_1950s.tiff : Myron Coureval Fagan derivative work: Comte0 ( talk ) · Public domain

概要

ウィスコンシンの上院議員がウェストヴァージニアの婦人会で「国務省に205人の共産主義者のリストがある」と言った。リストは見せなかった。4年。ハリウッド、大学、軍。「赤狩り」。1954年、テレビで陸軍と対決して、「あなたには品位のかけらもないのか」と言われ、上院が非難決議をした。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

ジョゼフ・マッカーシーAD1908年11月14日–AD1957年5月2日 · 煽った

本文

1950年2月9日、ウェストヴァージニア州のウィーリングで、共和党の女性クラブの集まりに招かれたウィスコンシン州選出の上院議員ジョゼフ・マッカーシーは、国務省に共産党員がいて、国務長官はそれを知りながら働かせている、自分の手にはその名簿がある、と語った。演説の録音は残っておらず、数を205人と言ったのか57人と言ったのかは、いまも食い違いがある。翌日以降、彼の挙げる数は57になり、81になった。名簿が示されることはなかった。

この言葉が火をつけたのは、恐れがすでに積み上がっていたからである。前年の1949年、ソ連が原爆の実験に成功し、中国では共産党が勝った。1950年1月には、元国務省の高官アルジャー・ヒスが偽証で有罪となり、2月には原爆の秘密をソ連に渡した科学者フックスがイギリスで捕まった。国内でもすでに、下院の非米活動委員会が1938年から調べを続け、1947年には映画界の脚本家ら「ハリウッド・テン」が証言を拒んで投獄され、業界は「赤」と疑われた人を雇わない黒い名簿を作っていた。同じ年、ハリー・トルーマン政権は連邦職員の忠誠審査を始めている。マッカーシーはこの流れを作ったのではなく、それに顔と名前を与えた。

上院の小委員会は彼の告発を調べ、7月に「詐欺でありごまかし」と結論した。だが6月に朝鮮戦争が始まると、疑う声の方が大きくなった。ワシントン・ポストの漫画家ハーブロックは3月、すでにこの風潮を「マッカーシズム」と描いていた。共和党の上院議員マーガレット・チェイス・スミスは、恐れと中傷による政治を批判する「良心の宣言」を読み上げたが、同調した議員はわずかだった。

朝鮮戦争に関わる図版:Chosin
朝鮮戦争Wikimedia Commons Photo by Corporal Peter McDonald, USMC · Public domain

1952年の選挙で共和党が上院を握ると、マッカーシーは政府活動委員会の調査小委員会の長になった。首席顧問の若い弁護士ロイ・コーンと、その友人デイヴィッド・シャインは、海外にある国務省の図書館を回り、「共産主義者の著者」の本を棚から外させた。焼かれた本もあった。1953年には陸軍の通信研究所を調べた。役人も教師も、名指しされれば職を失い、同性愛者もまた「脅されやすい」として公職から追われた。

転機は陸軍との争いだった。シャインが徴兵されると、コーンは陸軍に特別扱いを迫り、陸軍はそれを公にした。1954年4月22日から6月17日まで、36日にわたる聴聞会がテレビで中継され、およそ2000万人が見たとされる。6月9日、マッカーシーは陸軍の弁護士ジョゼフ・ウェルチの事務所の若い弁護士が、かつて左派の弁護士団体にいたと暴いた。ウェルチは答えた。「もう十分だ。あなたには、品位というものが無いのか」。傍聴席から拍手が起きた。

公聴会でウェルチ(左)を問責するマッカーシーこの一部始終はテレビで全米に中継された。
公聴会でウェルチ(左)を問責するマッカーシーこの一部始終はテレビで全米に中継された。Wikimedia Commons United States Senate · Public domain

その3月には、テレビの記者エドワード・マローが番組でマッカーシーの手法を彼自身の映像で示し、我々は恐れる者の子孫ではない、と語っていた。12月2日、上院は67対22で彼を非難する決議を採った。力を失ったマッカーシーは酒に沈み、1957年5月2日、48歳で死んだ。

1995年、アメリカ政府はソ連の暗号電報を解読した記録(ヴェノナ)を公開した。ソ連のスパイは政府の中に実際にいた。ローゼンバーグ夫妻の処刑の夫妻の夫ジュリアスも、その一人と確かめられた。だが、マッカーシーが名指しした人々のなかに、本物のスパイはほとんどいなかった。脅威が本物だったことと、告発が当てずっぽうだったことは、両立する。

"Is this tomorrow"と題され「共産主義下のアメリカ!」(AMERICA UNDER COMMUNISM)が直面するであろう恐怖を訴えるマッカーシズム(赤狩り)前後、1947年のアメリカ合衆国のパンフレット。
"Is this tomorrow"と題され「共産主義下のアメリカ!」(AMERICA UNDER COMMUNISM)が直面するであろう恐怖を訴えるマッカーシズム(赤狩り)前後、1947年のアメリカ合衆国のパンフレット。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

劇作家アーサー・ミラーは1953年、この空気をセイラムの魔女裁判に重ねた劇『るつぼ』を書き、1956年には自身も委員会に呼ばれた。ロイ・コーンはのちにニューヨークで辣腕の弁護士となり、若い頃のドナルド・トランプの相談役も務めた。認めるな、攻め返せ、謝るな、と教えたと伝えられる。「マッカーシズム」という言葉は、いまも政治の右からも左からも、相手を責める言葉として使われ続けている。

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