ヘンリエッタ・ラックス
概要
ヴァージニアのタバコ農家。曾祖母は奴隷だった。14歳で最初の子を産み、5人の母になり、メリーランドの造船所で働く夫とボルティモアへ移った。31歳、子宮頸がん。ジョンズ・ホプキンス病院の有色人種用病棟で治療を受け、8か月で死んだ。本人の知らないところで採られた細胞が、以後70年、世界中の研究室で増え続けている。墓には長く石がなかった。2013年、家族が細胞の遺伝情報の利用に関与する取り決めが結ばれた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ヒーラ細胞AD1951年 · 由来となった本文
ヘンリエッタ・ラックスは1920年8月1日、ヴァージニア州ローノークに生まれた。出生時の名はロレッタ・プレザントで、いつ、なぜヘンリエッタと呼ばれるようになったのかは分かっていない。4歳のとき、母イライザが10人目の子を産んで死んだ。父は子どもたちを育てきれず、親類に分けて預けた。ヘンリエッタは、ヴァージニア州南部クローバーでタバコを作る祖父トミー・ラックスに引き取られた。

暮らしたのは、一族が「ホーム・ハウス」と呼ぶ二部屋の丸太小屋だった。かつて一族の白人の先祖が所有し、その奴隷たちが住んでいた家である。ヘンリエッタの先祖にも、奴隷として働かされた人々がいた。同じ家には、いとこのデイヴィッド、通称デイも引き取られていた。子どもたちは夜明け前に起きてタバコ畑で働き、ヘンリエッタが学校に通ったのは6年生までだった。
14歳で最初の子ローレンスを産み、4年後には娘エルシーが生まれた。エルシーには発作と発達の障害があり、のちに州の施設に入れられて、15歳でそこで死んでいる。1941年、ヘンリエッタはデイと結婚した。同じ年、二人は仕事を求めて北のメリーランド州へ移り、ボルティモア近郊の、製鉄所と造船所で働く黒人の家族が住む町に落ち着いた。さらに3人の子が生まれた。近所の人々は、ヘンリエッタを、明るく料理上手で、爪をいつも赤く塗っていた人として覚えている。
1951年の初め、5人目の子を産んで間もなく、彼女は体の中にしこりがあると感じた。1月29日、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス病院を訪ねた。当時、この地域で黒人の患者を受け入れる数少ない大病院で、診察は有色人種用の病棟で行われた。診断は子宮頸部のがんで、極めて進行の速いものだった。
治療は、ラジウムを詰めた管を患部に当てる放射線療法だった。その処置の際、医師は研究のために、腫瘍と正常な組織の小さなかけらを切り取った。ヘンリエッタには知らされず、同意も求められなかった。当時、それは違法ではなかった。無料や低額で治療を受ける患者の組織を研究に使うことは、珍しくない慣行だったのである。
組織は、同じ病院で人の細胞を体の外で育てる研究をしていたジョージ・ゲイの研究室に運ばれた。それまで人の細胞は、培養してもすぐに死んでしまっていた。ところが、ヘンリエッタのがん細胞は違った。一日ほどで数が倍になり、いつまでも増え続けた。助手は試験管に、彼女の姓と名の最初の2文字ずつを取った名前を書き込んだ。これが「ヒーラ細胞」である(ヒーラ細胞)。

放射線は効かなかった。がんは全身に広がり、激しい痛みが続いた。輸血が必要になると、夫の職場の同僚たちが献血に来た。1951年10月4日、ヘンリエッタは31歳で死んだ。遺体は故郷クローバーの一族の墓地に、墓石もなく葬られた。
彼女の死後、細胞は世界中の研究室に送られた。ヒーラ細胞は、ポリオのワクチンの効き目を確かめる試験に大量に使われ(ソークのポリオワクチン)、がんやウイルスの研究、薬の探索、人の遺伝子の地図づくり(ヒトゲノム計画)、宇宙での実験にまで用いられた。子宮頸がんとヒトパピローマウイルスの関係の解明にも役立っている。この細胞を使った研究の論文は数万本にのぼり、細胞を売る企業も現れた。

その間、家族は何も知らなかった。夫デイは字が読めず、子どもたちは母のことをほとんど聞かされずに育った。末娘のデボラは、母の顔を覚えていなかった。1973年、研究者たちが初めて家族に連絡を取った。ヒーラ細胞がほかの細胞の研究に紛れ込んでいないか確かめるために、家族の血が必要だったのである。母の細胞がまだ生きている、と聞かされても、家族には何のことか分からなかった。自分たちががんの検査をされていると思った者もいた。デボラはその後何十年も、母の細胞が宇宙へ行った、複製されている、といった断片的な話に苦しみ、母がどこかで痛みを感じているのではないかと問い続けた。家族の中には、医療保険にも入れない者がいた。
彼女の名が広く知られるようになったのは、ずっと後のことである。1976年に雑誌が初めて詳しい記事を載せ、2010年には作家レベッカ・スクルートが、10年をかけて家族、とりわけデボラと向き合って書いた本『ヘンリエッタ・ラックスの不死なる人生』を出した。本は世界的に読まれ、著者は家族のための基金を作った。デボラは、本が出る前年の2009年に死んでいる。
2013年、ドイツの研究チームがヒーラ細胞の遺伝情報をすべて公開し、家族の同意がないと抗議を受けて取り下げた。同じ年、アメリカ国立衛生研究所は家族と取り決めを結び、この遺伝情報を誰が使えるかを審査する委員会に、ラックス家の代表が加わることになった。患者の同意なしに組織や情報を使うことの是非は、黒人の患者を欺いたタスキーギ梅毒研究の記憶とも重なり、医療と人種をめぐる議論の象徴になった。
墓に初めて石が置かれたのは2010年で、彼女の細胞が人々に益をもたらし続けるという言葉が刻まれた。2021年、世界保健機関は彼女を顕彰し、家族は細胞を売ってきた企業を訴えて、2023年に和解した。本人の知らないところで採られた細胞は、いまも世界中の研究室で増え続けている。