『人口論』

概要
人口は倍々に増え、食料は足し算でしか増えない。だから飢えと貧困は避けられない。匿名で出たこの薄い本が、以後200年の悲観論の型になる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
トマス・マルサスAD1766年2月13日–AD1834年12月23日 · 著者本文
1798年、ロンドンで一冊の薄い本が匿名で出た。題は『人口の原理に関する一論』。著者は、イングランドの田舎の教会で副牧師を務める32歳のトマス・マルサスだった。
18世紀の終わり、ヨーロッパでは、人間はどこまでも進歩できるという考えが盛んだった。フランスの思想家コンドルセや、イギリスの思想家ゴドウィンは、理性が広まり制度が改まれば、貧困も犯罪も戦争も無くなり、人類は完全な社会に近づくと論じた。マルサスの父も、その考えに共鳴していた。マルサスは父との議論の中で、その楽観に反論するためにこの本を書いた。

議論の骨組みは単純だった。人間には食べ物が欠かせない。そして、男女の間の情熱は無くならない。この二つを前提にすると、人口は、何も妨げが無ければ、25年ごとに倍、倍と増えていく。1、2、4、8、16。一方、食べ物は、土地に限りがあるため、よくて同じ期間に同じ量ずつしか増えない。1、2、3、4、5。前者を掛け算の増え方、後者を足し算の増え方として、マルサスは対比した。
二つの増え方が違う以上、人口はいつも食べ物の限界に追いつき、それを超えようとする。そのとき、飢え、病、戦争が人口を削り、もとの限界に押し戻す。豊かな時代が来れば人は増え、増えればまた貧しくなる。だから、制度をどう改めても、貧しい人々の暮らしを長く良くすることはできない。完全な社会は来ない、とマルサスは結論した。

この考えから、マルサスは当時イギリスで行われていた救貧法を批判した。貧しい人々に手当てを出せば、彼らは子どもを増やし、食べ物の値が上がり、結局は貧しい人を増やすだけだ、と。冷たい議論として、当時から激しい反発を受けた。
本は評判を呼び、マルサスは名を明かして、1803年に大幅に書き直した第2版を出した。各国を旅して集めた人口のデータを加え、厚い本になった。ここでマルサスは、人口を抑える道として、結婚を遅らせ、それまで子をもうけない「道徳的な抑制」を加え、悲観の度合いを少し和らげた。本は6版まで改訂を重ねた。マルサスは東インド会社が開いた学校で、イギリスで最初の経済学の教授になった。1834年にイギリスの救貧法が厳しく改められたとき、その考えは改正を後押しした。
この本は、思いがけない分野で大きな実りをもたらした。1838年、チャールズ・ダーウィンは気晴らしにこの本を読み、生きものは育ちきれないほど多くの子を産み、生き残りをかけた争いが起きる、という考えに強く打たれた。その争いの中で、少しでも有利な性質を持つものが残っていく。ダーウィンは自伝で、このとき自然選択の考えを得たと書いている。同じ考えにたどり着いたウォレスも、マルサスを読んでいた。二人の考えは、のちに『種の起源』にまとめられる。

マルサスの予言そのものは、外れた。本が出たころ10億人ほどだった世界の人口は、200年あまりで8倍の80億人になった。それでいて、一人あたりの食べ物は減るどころか増えた。農業の技術が改良され、新しい土地が開かれ、交易が食べ物を世界に行き渡らせた。20世紀には、空気中の窒素から肥料を作るハーバー・ボッシュ法と、収量の多い品種を広めた緑の革命が、食べ物の限界を大きく押し上げた。さらに、豊かになった国々では、人々が自ら子どもの数を減らしはじめた。マルサスが考えたより、人間はずっと柔軟だった。
それでも、この本の考え方は消えなかった。資源には限りがあり、人が増えれば行き詰まる。1960年代には、人口の爆発が大飢饉を招くと警告する本がベストセラーになり、1972年には、ローマ・クラブの報告『成長の限界』が、このままでは100年以内に成長が限界に達すると論じた。限界を語る議論は、いまもマルサスの型で書かれることが多い。
反対に、人間の工夫が限界を動かし続けると論じる人々は、マルサスを反論の相手に選んできた。物語「『繁栄』で読む歴史」も、その一つである。マルサスが間違っていたのか、まだ時が来ていないだけなのか。この問いは、200年以上たったいまも、資源や環境の問題を論じるときに繰り返し立てられている。