バジョットと最後の貸し手
概要
恐慌が起きると、誰もが現金を求めて銀行に走る。健全な銀行でも、全員が同時に来れば潰れる。『エコノミスト』の編集長ウォルター・バジョットが『ロンバード街』で原則を書いた。中央銀行は、危機のとき、良質な担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。高い金利は、本当に困っている者だけを来させる。良質な担保は、潰れるべき者を救わないためである。この一行が、以後150年の中央銀行の教科書になった。2008年にも引かれた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ウォルター・バジョットAD1826年2月3日–AD1877年3月24日 · 書いた本文
銀行は、人々から預金を集め、それを貸し出して利息を稼ぐ。だから手元には、預かった金の一部しか現金として置いていない。ふだんはそれで困らない。預金者が全員同時に引き出しに来ることなど、まず無いからである。
だが、あの銀行は危ないらしい、という噂が立つと事情は一変する。人々が窓口に押し寄せれば、どれほど健全な銀行でも、すべての預金をその場で払い戻すことはできない。そして払えなかったという事実が、噂を本当にしてしまう。一つの銀行の破綻は、次の銀行への疑いを呼び、恐慌が広がっていく。

19世紀のイギリスは、こうした恐慌を何度も経験した。1825年には、独立したばかりの中南米の国々への投資熱がはじけた。実在しない「ポヤイス国」の債券まで売られていたほどの熱狂で、崩壊とともに数十の銀行が倒れた。1847年には鉄道への投機と穀物の不作が、1857年にはアメリカから始まった世界的な恐慌が、ロンドンを揺さぶった。
そして1866年5月、手形の割引で最大手だったオーヴァレンド・ガーニー商会が支払いを止めた。翌日の金曜日、ロンドンの金融街は大混乱に陥り、のちに「暗黒の金曜日」と呼ばれた。多くの銀行や会社が倒れた。
その金融街の中心を走るのが、ロンバード街である。名前は、中世にここに住みついた北イタリアのロンバルディア出身の両替商たちに由来する。19世紀、この通りとその周辺は世界の短期の金融市場だった。期日前の手形を買い取る割引商、ベアリングやロスチャイルドのような大きな商人銀行、株式会社の銀行が集まり、その真ん中にイングランド銀行の設立があった。世界の貿易の支払いの多くが、ここを通って決済された。
この街の仕組みを、誰よりもよく知って書いたのが、ウォルター・バジョットである。1826年、イングランド南西部サマセットのラングポートに生まれた。父は地方銀行の共同経営者だった。ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジで数学や道徳哲学を学び、法廷弁護士の資格も取ったが、結局は父の銀行に入った。この経歴が大事である。彼は机の上の学者ではなく、手形を割り引き、客の信用を見極め、恐慌のときには現場で金のやり取りをしてきた実務家だった。
1858年、バジョットは、経済誌『エコノミスト』を創刊したジェームズ・ウィルソンの娘と結婚した。義父が亡くなった後、1860年代の初めから亡くなるまでの十数年、彼はこの雑誌を率いた。1867年に出した『イギリス憲政論』では、イギリスの国の仕組みを、人々の敬意と忠誠を集める「威厳ある部分」(王室や貴族院)と、実際に国を動かす「機能する部分」(内閣と庶民院)に分けて説明した。王室の神秘こそがその命であり、魔法に日の光を当ててはならない、という一節は、いまもよく引かれる。この本は、イギリスの政治を論じる古典として読み継がれている。
1873年、バジョットは『ロンバード街』を出した。副題は「貨幣市場の記述」。1866年の恐慌の記憶がまだ生々しい時期の本である。彼はまず、理屈より先に、実際の仕組みがどうなっているかを書いた。イングランド銀行は、法律の上ではただの民間の株式会社にすぎない。
ところが現実には、ほかの銀行がみな自分の準備の金をイングランド銀行に預けているので、国全体の準備金が事実上この一つの銀行に集まっている。だから危機になれば、誰もが最後にはイングランド銀行へ駆け込む。一つの銀行にすべての準備を集める仕組みは自然なものではないが、それが現実である、とバジョットは書いた。そしてイングランド銀行の理事たちは、自分たちを民間の銀行家だと考え、国全体を支える責任を負っていることを認めたがらない。責任があまりに重いからこそ認めたくないのだ、と彼は見抜いていた。
バジョットは、恐慌を冷静な計算の問題ではなく、人の心の問題として描いた。ふだん人は、自分で判断するより、周りの人の判断に従って動いている。だから恐れが広がると、皆が同じ方向へ一斉に走り出す。恐慌は一種の神経の病のようなものだ、と彼は書いた。銀行の信用は、疑われたとたんに失われてしまう。
では、危機のとき、中央銀行は何をすべきか。バジョットの答えは、貸せ、だった。ただし条件がある。第一に、惜しみなく、大胆に、すぐに貸すこと。出し渋っていると見られれば、不安はかえって深まる。第二に、高い金利で貸すこと。
本当に困っている者だけが借りに来るようにし、借りた金で投機をしようとする者を遠ざけるためである。安く貸せば、銀行がふだんから危機に備える気を失ってしまう。第三に、平時なら誰でも認めるような良い担保に対して貸すこと。救うべきは、財産は十分にあるのに、今この瞬間に現金が足りないだけの銀行である。財産そのものが足りず、もともと潰れるべき銀行まで救ってはならない。
この三つは、のちに「バジョットの原則」と呼ばれ、良い担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ、と一行にまとめられて語られる。ただし、現金が足りないだけなのか、本当に財産が足りないのかを、危機のさなかに見分けるのは極めて難しい。原則の核心は、同時にいちばんの難所でもある。
この考えを最初に唱えたのは、バジョットではない。1802年、銀行家で国会議員のヘンリー・ソーントンが、紙の信用についての著書の中で、同じ趣旨のことをすでに論じていた。ソーントンは、奴隷貿易の廃止を目指した福音派の仲間「クラパム派」の一人でもある(その運動は1833年のイギリスの奴隷制廃止法に実を結ぶ)。バジョットはソーントンを高く評価して引用している。バジョットの功績は、この考えを、誰にでも分かる明快な原則として繰り返し説き、広めたことにあった。
原則が試されたのは、1890年のベアリング危機である。イギリスで最も古い商人銀行の一つ、ベアリング商会が、アルゼンチンへの投資で行き詰まり、破綻しかけた。イングランド銀行総裁ウィリアム・リダーデールは、ほかの銀行を集めて保証の基金を作り、ベアリングの支払いを支えた。恐慌は起きなかった。
アメリカには、長く中央銀行が無かった。1907年の恐慌では、銀行家J・P・モルガンが個人で銀行家たちを自宅に集めて資金を出させ、混乱を収めた。一人の民間人に頼る危うさが、1913年の連邦準備制度の創設につながった。ところが1929年から始まった世界恐慌で、その連邦準備制度は、バジョットの原則どおりには動かなかった。何千もの銀行が潰れるのを見過ごし、出回るお金の量は3分の1ほども減った。経済学者のミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツは1963年の大著で、この失敗を詳しく論じた。

その分析を研究の出発点にしたのが、のちに連邦準備制度の議長になるベン・バーナンキである。2002年、フリードマンの90歳の誕生日を祝う席で、彼は、大恐慌について言われたことはその通りだ、私たちがやってしまった、申し訳ない、だがあなたのおかげで、私たちは二度と同じことはしない、という趣旨の言葉を述べた。2008年、大手証券会社リーマン・ブラザーズが破綻して世界の金融が凍りつくと、各国の中央銀行は大量の資金を市場に流し込んだ。議長となっていたバーナンキは、議会での証言や講演で、繰り返しバジョットの名を挙げた。もっとも2008年の対応は、金利を低く抑え、担保の基準も緩め、財産の足りない機関まで救った点で、原則からは外れている。それが正しかったかどうかは、いまも議論が続いている。
バジョット自身は、政治家になる夢をかなえられなかった。何度か下院の議席を目指したが、いずれも果たせなかった。演説で聴衆に向かって、込み入った議論をしすぎたと言われる。1877年3月、51歳で亡くなった。
『エコノミスト』誌には、いまも彼の名を冠したイギリス政治の論評欄が続いている。危機のときには、良い担保に対して、高い金利で、惜しみなく貸せ。この一行は、150年後の中央銀行にとっても、まだ教科書の最初のページにある。