ジョージ・ギャラップ
概要
アイオワの生まれ。大学院で、新聞のどの記事が実際に読まれているかを測る方法を研究し、それが博士論文になった。広告会社で読者調査を担い、1935年に世論調査所を設立する。翌年の大統領選で、大手雑誌の巨大な調査を、はるかに小さく設計された標本で覆した。母の義理の親が州の役職に立候補したとき、その当落を予測したことが、出発点だと語っている。世論は測れるものであり、測ることが民主主義に資する、という信念を持ち続けた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
リテラリー・ダイジェストの失敗AD1936年11月3日 · 当てた本文
ジョージ・ホレス・ギャラップは1901年11月18日、アメリカ中西部アイオワ州の小さな町ジェファーソンに生まれた。父は酪農を営み、土地の売り買いにも手を出す一方、独学で哲学をかじる人だった。息子に自分の頭で考えることを教えた、と後年語られている。

ギャラップはアイオワ大学に進み、学生新聞の編集長を務めた。新聞を作る側に立って、彼は一つの疑問を持った。自分たちが書いた記事の、どれが本当に読まれているのか。読者に尋ねても、人は読んだつもりのものを答えるだけだ。そこで彼は、読者に新聞を実際に開かせ、どの記事のどこまでを読んだかを、一つずつ指で示してもらう方法を考えた。1928年、この研究で博士号を得た。
結果は新聞社を驚かせた。人々は、自分が読んでいると思っているものを読んでいなかった。社説や国際面はあまり読まれず、よく読まれていたのは漫画や写真や地元の話題だった。新聞社はこの方法に飛びついた。1932年、ギャラップはニューヨークの広告会社に迎えられ、どの広告が見られ、覚えられているかを測る仕事を始めた。読者を調べるという分野を、事実上ここで作った。

同じ1932年、妻の母オラ・バブコック・ミラーが、アイオワ州の州務長官の選挙に民主党から立った。アイオワは共和党の強い州で、勝ち目はないと見られていた。ギャラップは独自に調べ、彼女は勝つと読んだ。結果はそのとおりになり、彼女はアイオワ州で選挙によって州の公職に選ばれた最初の女性になった。あれが出発点だった、と彼はのちに語っている。
1935年、彼はプリンストンにアメリカ世論研究所を設けた。調べた結果を「アメリカはこう考えている」というコラムにして、各地の新聞に売る。人々の意見を、記事として定期的に届ける仕組みである。
名を一気に高めたのが、翌1936年の大統領選挙だった。当時の人気雑誌『リテラリー・ダイジェスト』は、電話帳や自動車の登録名簿から集めた1000万人に葉書を送り、200万人を超える回答をもとに、共和党のランドンが勝つと予想した(リテラリー・ダイジェストの失敗)。ギャラップはずっと少ない人数を、地域や年齢や暮らしむきの割合が国全体と同じになるよう選んで調べ、フランクリン・ローズヴェルトの勝利を予測した。しかも、ダイジェストがどれほどの数字でランドンの勝ちを予想するかまで、ほぼ正確に事前に言い当てた。電話や自動車を持つ人は、不況の時代には豊かな層に偏っていたのである。ローズヴェルトは大勝した。数の多さより選び方が大事だということを、この選挙は示した(少ない標本で当てる)。
1948年、今度はギャラップが外した。ハリー・トルーマンと共和党のデューイの戦いで、彼はデューイの勝利を予測し、トルーマンが勝った。勝ったトルーマンが「デューイ勝利」という見出しの新聞を掲げて笑う写真は有名になった。ギャラップは誤りを認め、やり方を改めた。投票日の直前まで調査を続けること。調べる人を割り当ての枠で選ぶのをやめ、偶然に任せて選ぶ確率の方法へ移っていくこと。予想などやめてしまえという声には応じず、間違えたならなぜ間違えたかを調べて直せばよい、と言った。
彼がくり返し書いたのは、民主主義の政治家は、国民が何を考えているかを知らなければならない、ということだった。それには選挙の日だけでは足りない。世論は測ることができ、測るべきものだ、と彼は信じていた。
批判も多かった。調査の結果が出ると、勝ちそうな側に票が流れるのではないか。逆に負けそうな側に同情が集まるのではないか。その効果がどれほどかは、研究者の間でも見方が分かれている。質問の仕方で答えが変わることは確かで、「賛成ですか」と聞くか「反対ですか」と聞くか、選択肢をどの順に並べるかで、数字は動く。存在しない架空の法律について賛否を尋ねた実験では、かなりの人がどちらかを答えた。フランスの社会学者ブルデューは1970年代の初めに、誰もが意見を持っている、どの意見も同じ重さだ、同じ問いが誰にとっても同じ意味を持つ、という世論調査の前提はどれも成り立たない、と論じた。ギャラップはこうした批判に、調査は改善できる、と答え続けた。
1984年7月26日、ギャラップはスイスのヴァレー州にあった山荘で、心臓発作のため死んだ。82歳だった。
彼の会社はいまもギャラップの名で続き、いまでは世論調査よりも、企業で働く人の意識を調べる仕事が中心になっている。彼の名は多くの言語で、世論調査そのものを指す言葉になった。選挙のたびに新聞やテレビに並ぶ支持率の数字は、アイオワの学生新聞の編集長が、読者に記事を指さしてもらったところから始まっている。