できごと

プロティノスの新プラトン主義

Plotinus and Neoplatonism
AD253年(書きはじめる)
重要度 3
ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシアサーミメロエヒムヤル王国アクスム王国アルメニアハドラマウトブレンミュエスBoihaenumAD253年(書きはじめる)ローマ
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概要

万物は「一者」から流れ出し、魂はそこへ帰ろうとする。プラトンを神秘的に読み直した体系で、キリスト教とイスラームの神学が借りていく。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

プロティノスAD204年頃–AD270年 · 教えた

本文

プロティノスについて私たちが知ることのほとんどは、弟子のポルフュリオスが書いた短い伝記による。その冒頭に、師は肉体の中にいることを恥じているように見えた、とある。生まれた土地も、両親のことも、誕生日も語ろうとしなかった。肖像を描かせてほしいと頼まれると、自然がまとわせたこの影の、さらに影を残せというのか、と言って断った。弟子たちは仕方なく画家を講義に通わせ、顔を覚えさせて、記憶で描かせたという。

後の時代の記録では、プロティノスは205年ごろ、エジプトのリュコポリスに生まれたとされる。28歳で哲学に目覚め、アレクサンドリアの名だたる教師のもとを回ったが、誰の話にも満足できなかった。友人に連れられてアンモニオス・サッカスという人の講義を聞いたとき、「これこそ私の探していた人だ」と言い、その後11年間、彼のもとで学んだ。アンモニオスは何も書き残しておらず、どんな教えだったのかはよく分からない。

プロティノスの肖像
プロティノスの肖像Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

ペルシア人とインド人の哲学を学びたいと考えたプロティノスは、242年、若い皇帝ゴルディアヌス3世のペルシア遠征の軍に加わった。ところが244年、皇帝はメソポタミアの陣中で死に(殺されたとする記録が多い)、遠征は崩れた。プロティノスはやっとのことでアンティオキアへ逃れ、40歳でローマにたどり着く。ローマ帝国は、皇帝が次々に立っては殺される「3世紀の危機」のただ中にあった(ローマ皇帝が捕らわれる)。

ローマで彼は講義を始め、26年間教え続けた。はじめの10年は話すだけで、何も書かなかった。書きはじめたのは253年ごろ、50歳近くなってからである。目が悪く、書いたものを読み返さず、綴りも気にしなかったが、考えは最初から最後まで頭の中で組み上がっていて、人と話しながら中断しても、戻ればそのまま続きを書けたとポルフュリオスは書いている。聴講者には元老院議員も医者も女性もいて、皇帝ガリエヌスと皇后も彼を敬った。プロティノスは、南イタリアの廃れた町を、プラトンの理想の国の法で治める哲学者の町に作り直したいと皇帝に願い出たが、宮廷の反対で実現しなかった。親を亡くした子どもたちの後見人を何人も引き受け、彼の家はいつも子どもであふれていた。

プロティノスと弟子たちと推定される像、ローマ時代の石棺(ヴァチカン美術館)
プロティノスと弟子たちと推定される像、ローマ時代の石棺(ヴァチカン美術館)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

プロティノスの思想の中心には「一者」がある。あらゆるものの源で、どんな言葉でも言い表せず、「ある」とさえ言えない、完全に一つのもの。泉から水があふれ出るように、太陽から光が放たれるように、一者からは、それ自身は少しも減ることなく、すべてが流れ出る。まず、万物の本当の姿(イデア)を一度に見る「知性」が生まれ、知性から、世界を動かし生かす「魂」が生まれ、魂の働きの最も外側に、形の定まらない物質がある。源から遠ざかるほど、存在は薄く、ばらばらで、不完全になる。悪とは何かが「ある」ことではなく、善が欠けていることだ、と考えた。

人の魂は、本来はこの上の世界に属している。体と感覚の世界に心を奪われて、自分がどこから来たのかを忘れているにすぎない。哲学とは、その流れをさかのぼり、外のものから内へ、魂から知性へ、知性から一者へと帰っていく道である。その果てには、考えることも見ることも超えて、一者と一つになる瞬間がある。ポルフュリオスは、自分が師のそばにいた6年の間に、師が4度その境地に達したと書いている。この体系は後に「新プラトン主義」と呼ばれるが、本人は自分をプラトンの忠実な解釈者だと考えていた(プラトンのアカデメイア)。

哲学者プロティノスの胸像
哲学者プロティノスの胸像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

270年、プロティノスは病に冒され、ローマを離れたカンパニアの友人の地所で死んだ。最期の言葉は「私たちの内なる神的なものを、万有の神的なものへ帰すように努めよ」だったと伝えられる。30年ほどのち、ポルフュリオスは師の残した54篇の論文を主題ごとに並べ直し、9篇ずつ6巻にまとめて出版した。9を意味するギリシア語から『エンネアデス』と呼ばれる。

この書物は、キリスト教とイスラームの神学に深く入りこんだ。アウグスティヌスは回心の前に「プラトン派の書物」をラテン語訳で読み、神を物体として思い描くことから抜け出せたと『告白』に書いている(アウグスティヌスの回心)。悪を善の欠如と見る考えも、彼が受け継いだ。『エンネアデス』の一部はアラビア語に訳され、誤ってアリストテレスの著作とされて『アリストテレスの神学』の名で読まれ、イスラームの哲学者たちに影響を与えた。1492年にはフィレンツェでマルシリオ・フィチーノがラテン語の全訳を出し、ルネサンスの芸術家と思想家に読まれた。アレクサンドリアのヒュパティアや、アテナイのアカデメイアの最後の学頭たちも、この流れの上にいる(アテナイのアカデメイア閉鎖)。

出典(1)

プロティノス(ポルフュリオス編) 『エンネアデス』全6巻

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