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Event / できごと

王陽明の龍場の悟り

Wang Yangming's enlightenment at Longchang
AD1508年
重要度 5

概要

宦官の劉瑾を批判して杖刑を受け、貴州の龍場(駅站)に流された37歳の官僚が、瘴気の土地で石の棺を作って寝起きし、ある夜、跳ね起きて叫んだ。「聖人の道は、自分の性の中にすでに足りている。外の物に理を求めていたのが誤りだった」。「心即理」「知行合一」、後に「致良知」。朱子学の「外に理を求める」を裏返した。日本の中江藤樹と大塩平八郎と幕末の志士が読んだ。

場所

余姚
30.04°N 121.15°E · 中国・浙江省

関わった人(1)

王陽明AD1472年10月31日–AD1529年1月9日 · 悟った

本文

王守仁。1472年、浙江の余姚。父王華は状元(科挙の首席)。少年の頃、塾の師に「人生で第一等のこととは何ですか」と聞かれて、「科挙に及第することではなく、聖人になることです」と答えた、と伝える。

18歳頃、朱子学の「格物」を実践しようとした。「一草一木にも理がある」。友人と、庭の竹の前に座って、竹の理を窮めようとした。友人は3日で倒れ、彼は7日で倒れた。何も得られず、病んだ。「聖人になるには、大きな器量が要るのだ。私にはない」。しばらく道教と仏教に傾き、詩と兵法に凝った。

1499年、28歳で進士。工部、刑部、兵部。

1506年、正徳帝の下で、宦官の劉瑾が権力を握った。彼を批判した官僚が投獄された。王守仁が、その釈放を求める上奏をした。廷杖40(宮廷で尻を打つ刑)。死にかけた。獄。そして、貴州の龍場駅の駅丞(宿駅の管理人。九品より下の、事実上の流刑)に。

途中、劉瑾の刺客に追われた。杭州で、衣と靴を川岸に置いて入水を装い、船で福建へ逃れ、それから任地へ向かった、と伝える。

龍場(いまの貴州省修文県)。標高1500メートルの山中。当時、漢人がほとんどおらず、ミャオ族とイ族の土地。瘴気(マラリア)。言葉が通じない。住む家がなく、洞窟に住んだ。連れて来た従者が次々に病んで、彼が薪を割り、粥を炊き、歌を歌って慰めた。

彼は、石で棺を作らせて、その前に座った。「私は、生死の一念だけが、まだ落ちていない」。夜。

1508年のある夜、中。彼は跳ね起きて、叫んだ。従者が驚いて起きた。

「聖人の道は、吾が性に自ら足る。向に理を事物に求めしは誤りなり(聖人の道は、私の本性の中に、すでに十分に備わっている。これまで理を外の事物に求めていたのは、誤りだった)」。

「龍場の悟り」。

以後の教え。

「心即理」。理は、外の物の中でなく、心の中にある。親に仕える理は、親の中にあるのでなく、孝を思う心の中にある。

「知行合一」。知って、行わないのは、まだ知っていない。「知は行の始めであり、行は知の完成である」。美しい色を見て好むのが「知」であり、好むこと自体が「行」で、二つは分かれていない。

「致良知」(晩年、50歳頃から)。「良知」は、教えられなくても善悪を知る、心の本来の働き。子供が井戸に落ちそうなのを見て、はっと思う心。それを覆っている私欲を除いて、良知を発揮しきる。「街いっぱいの人が、みな聖人だ」。

軍。1516年から、江西と福建の山地の反乱を鎮めた(3年、少ない兵で、情報と分断と急襲で)。1519年、寧王朱宸濠の乱。10万の兵で南京を狙った寧王を、王守仁は正規の兵を持たないまま、義兵を集め、偽情報を流して寧王を10日足止めし、その隙に根拠地の南昌を落とし、鄱陽湖で寧王を捕らえた。43日。

朝廷はそれを喜ばなかった(正徳帝が自分で親征して手柄を立てたがっていた。宦官が功を横取りしようとした)。彼は功績を譲り、故郷に帰って講学した。弟子が集まった。「王門」。

1527年、広西の反乱の鎮定を命じられた。病んでいた。翌年、鎮定して帰る途中、江西の南安の船中で死んだ。56歳。弟子が最期の言葉を求めた。「此の心光明なり、また何をか言わん(この心は明るい。他に言うことがあろうか)」。

その後。死後、爵位を剥奪され、その学問は「偽学」とされた(1567年に名誉回復)。しかし弟子は各地に広がり、明末の思想の中心になった(王艮の泰州学派は、庶民と職人に説いた。李贄は、儒教の権威そのものを疑うところまで行った)。

日本。中江藤樹(1608〜48年)が、40歳で『陽明全書』を読んで転じた。熊沢蕃山、大塩平八郎(1837年、大坂で「救民」の旗を挙げて挙兵した)、吉田松陰、西郷隆盛、そして三島由紀夫が読んだ。「知行合一」は、日本では、行動を促す言葉として受け取られた。

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