言文一致
概要
明治まで、日本語の書き言葉は話し言葉と別物だった。漢文訓読体、候文、雅文。二葉亭四迷は『浮雲』を書くとき、どう書けばよいか分からず、坪内逍遥に相談した。「三遊亭円朝の落語通りに書いてみろ」と言われた。速記された落語の本が売れていた時代である。「だ」で終える文体ができた。山田美妙は「です」、尾崎紅葉は「である」。学校教育と新聞と、そして活版印刷が、これを全国の標準にした。話すように書く、という当たり前が、作られたものである。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
二葉亭四迷AD1864年4月4日–AD1909年5月10日 · 試みた本文
明治のはじめまで、日本語の書き言葉は話し言葉とまるで別のものだった。公文書や学問や記録は漢文で書かれ、訓読して読んだ。手紙や実務の文書は「何々致し候」と結ぶ候文(そうろうぶん)。物語や和歌の流れを汲む文章は、『源氏物語』以来の言い回しをまねた雅文で、「けり」「なり」で結んだ。新聞の論説は「スベシ」「アリ」と続く漢文訓読体である。誰ひとり、日常そのように話してはいない。書けるようになることは、もう一つ別の言語を身につけることに近かった。だから読み書きは難しく、身分や学歴と強く結びついていた。
明治に入ると、この状態への批判が次々に出た。前島密は漢字をやめてかなで書くべきだと説き(漢字御廃止之議)、福沢諭吉は誰にでも読める平易な文章を心がけた。のちに初代の文部大臣となる森有礼は、若い頃、日本語をやめて英語を国語にしてはどうかとアメリカの言語学者ホイットニーに書き送り、たしなめられている。かなで書こう、ローマ字で書こうという会も作られた。背景には、国民国家の要請がある。国じゅうの人が読み書きをして同じ情報を共有するには、書き言葉が話し言葉に近くなければならない。翻訳の問題もあった。西洋の小説を訳そうとすると、候文や漢文訓読体では、人の心の細かな動きや、何気ない会話が書けないのである。

この壁に正面からぶつかったのが、二葉亭四迷だった。本名は長谷川辰之助。東京外国語学校でロシア語を学び、ゴーゴリやツルゲーネフ、ゴンチャロフを原語で読み、ベリンスキーの文学論に心酔していた。1886年ごろ、彼は小説を書こうとして行き詰まる。雅文で書けば中身と合わず、漢文訓読体では人物が生きてこない。そこで、前年に『小説神髄』を出して文壇の第一人者になっていた坪内逍遥を訪ねて相談した。のちに二葉亭が「余が言文一致の由来」(1906年)で回想しているところでは、逍遥は「円朝の落語通りに書いて見たらどうか」と勧めたという。
三遊亭円朝は当時随一の落語家で、その高座を速記で書き取った本が明治10年代から出版され、よく売れていた。1884年の『怪談牡丹燈籠』がその代表である。日本語の速記術が工夫されたのは1882年で、人の話をそのまま文字にできるようになったばかりだった。話し言葉が印刷され、それを人々が楽しんで読んでいる。その見本が、目の前にあったのである。
1887年(明治20年)6月、『浮雲』第一篇が出た。無名の二葉亭の名では売れないとして、表向きは逍遥の名で出版された。第二篇は翌年、第三篇は1889年に雑誌に載った。役所を免職になった青年内海文三が、恋にも出世にも取り残されていく話で、主人公の内面の揺れを細かく書いたことから、日本の近代小説の始まりとされる。文末は「だ」で結ばれた。ただし、その文体は最初から統一されていたわけではない。とくに第一篇の地の文には江戸の戯作の調子が色濃く残り、書き進めるうちに変わっていく。二葉亭自身、後年まで出来に満足していなかった。
同じ頃、ほかの作家たちも別の結び方を試していた。山田美妙は「です」で結ぶ文体を押し進め、のちに尾崎紅葉は「である」で地の文を書いた(『多情多恨』1896年)。「です」は丁寧で柔らかい印象を与えたが、小説の地の文としては次第に使われなくなる。最終的に標準として残ったのは、「だ」と「である」だった。夏目漱石『吾輩は猫である』の書き出しが「である」で始まるのは、その結果でもある。

もっとも、言文一致がすぐに文壇を制したわけではない。話し言葉で書いた文章は品が無く、締まりが無いと嫌う声は根強かった。森鷗外の『舞姫』(1890年)は雅文体で書かれ、樋口一葉の『たけくらべ』も文語を基調にしている。明治20年代の後半には、言文一致の試みがいったん下火になった時期さえある。小説の地の文がほぼ口語にそろうのは、明治30年代の終わり、自然主義の作家たちが身の回りの現実をありのままに書こうとした頃のことだ。
二葉亭の仕事でもう一つ大きかったのが、1888年に訳したツルゲーネフの短編『あひゞき』である。樺の林に座って、秋の空模様や木の葉の音を見聞きする場面から始まるその訳文は、自然をこれほど細やかに日本語で書けるのかと若い文学者たちを驚かせた。国木田独歩は、この訳文から受けた衝撃を、のちに自分の作品の中で書いている。
だが、文学者の実験だけでは、文体は国の標準にならない。決め手になったのは、新聞と学校と印刷である。明治20年代から新聞の記事が少しずつ話し言葉に近づいた。1890年に帝国議会が開かれると、議員の演説が速記されて印刷され、話し言葉が公の記録になった。1900年には文学者や学者や新聞人が言文一致会を作って組織的に運動し、同じ年の小学校令の改正で、国語の教科書に言文一致の文章が取り入れられた。1904年からは国定教科書が使われ、全国の子どもがこの文体で読み書きを習うようになる。
同時に進んだのが、標準語づくりである(「国語」と標準語)。1902年に文部省に置かれた国語調査委員会は、方言を調べて標準語を選ぶことを方針の一つに掲げた。事実上、東京の山の手の教養層の言葉が標準とされ、学校では方言が直された。沖縄では、方言を口にした生徒に「方言札」という札を首から下げさせる罰が行われた地域もある。標準の書き言葉を作ることは、ほかの言葉を周縁に追いやることと表裏一体だった。同じことは、フランスのブルターニュ語やオック語、イギリスのウェールズ語、そして日本のアイヌ語でも起きている。
二葉亭は『浮雲』の後、長く小説から離れ、役所の翻訳官やロシア語の教師として働いた。1904年に朝日新聞社に入り、二十年近くぶりに小説を書いた後、特派員として赴いたロシアで病に倒れ、1909年、帰国の船の上で死んだ。
いま私たちが書いている文章は、ほとんどすべてが言文一致体である。話すように書くのは当たり前のことに思える。だがそれは、作られたものだ。円朝の高座を速記した本と、一人の青年の迷いと、新聞と教科書とが組み合わさって、ここ百四十年ほどのあいだに作られた。