管仲
概要
敵だった公子に仕え、その公子を覇者にした宰相。塩と鉄を国が握り、商業を認めた。「衣食足りて礼節を知る」はこの人の言葉として伝わる。
関わったできごと(1)
斉の桓公の覇BC679年(甄の会盟) · 宰相本文
生まれた年は分からない。名は夷吾、字は仲。周の王の権威が衰え、諸侯が力で争い始めた春秋時代(春秋の争覇と鉄製農具)の人である。仕えたのは、東の海辺にあって魚と塩に恵まれた大国、斉だった。斉は周の建国の功臣、太公望が封じられた国とされる(太公望の斉)。

若いころは貧しく、友人の鮑叔牙と組んで商売をした。儲けを分けるとき、管仲は自分の取り分を多くした。鮑叔は、あいつは貧しいのだと言って咎めなかった。管仲が戦に出て三度逃げ帰ったときも、鮑叔は、年老いた母がいるからだと言った。のちに管仲は「私を生んだのは父母だが、私を知る者は鮑叔だ」と語ったと『史記』は伝える。二人の友情は「管鮑の交わり」と呼ばれ、いまも使われる言葉になっている。
紀元前686年、斉の君主が殺され、国が乱れた。亡命していた二人の公子が、跡を継ごうと国へ急いだ。管仲は公子糾に、鮑叔はその弟の公子小白に仕えていた。管仲は小白の行く手で待ち伏せ、矢を放った。矢は帯の留め金に当たった。小白は死んだふりをして相手を油断させ、先に都へ入って君主の座についた。これが斉の桓公である。

敗れた公子糾は殺され、管仲は罪人として檻に入れられて斉へ送り返された。桓公は自分を射た男を殺すつもりだったが、鮑叔が止めた。斉一国を治めるだけなら私で足りる。だが天下に覇を唱えるなら、管仲でなければならない、と。桓公はその言葉を容れ、管仲を宰相にした。鮑叔は自ら管仲の下に立った。
管仲が進めたとされる政策は、国を富ませ、兵を強くすることにつながっていた。民を士、農、工、商の四つに分けて別々に住まわせ、仕事に専念させた。村の組織をそのまま軍の単位に重ね、平時の隣人が戦では同じ隊になるようにした。海の塩と山の鉄から上がる利益を国が握り、商人の往来を保護して交易を盛んにした。国が営む遊郭を置いて財源にしたとも伝わる。ただし、これらの政策の多くは、後の時代にまとめられた書物『管子』に頼って知られるもので、どこまでが管仲自身の業績かははっきりしない。塩と鉄の専売は、500年以上後の漢の時代にも、国の財政の柱として論じられることになる(塩鉄会議)。
『管子』の冒頭近くには、「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」という言葉がある。米倉が満ちてはじめて人は礼儀をわきまえ、衣食が足りてはじめて名誉と恥を知る。食べられない民に道徳を説いても無駄だ、という考えである。
斉の国力を背景に、桓公は諸侯を何度も集めて盟約を結び、その盟主となった(斉の桓公の覇)。名目はあくまで周の王を立て、外の異民族を退けることだった。北の異民族に攻められた燕を救い、滅ぼされかけた衛や邢を立て直し、紀元前656年には南の大国楚に軍を向けて、周の王への貢ぎ物を怠ったことを責めた。桓公は春秋の覇者の最初の一人に数えられる。
紀元前645年、管仲は病に倒れた。見舞った桓公が後を誰に任せるべきかと尋ねると、管仲は桓公に取り入っていた側近たちを遠ざけるよう説いたと伝えられる。自分の子を料理して主君に食べさせたという料理人の易牙らのことである。桓公は従わなかった。管仲の死から2年後、桓公が死ぬと、息子たちが跡目を争い、桓公の遺体は60日以上も葬られないまま放置されたという。斉の覇権はそこで終わった。
後の時代の評価は分かれた。孔子は、管仲の暮らしぶりが分をわきまえない贅沢だったと批判する一方で、管仲がいなければ自分たちは異民族の風俗に染まっていただろうと、その功を認めた。三国時代の諸葛亮は、若いころ自分を管仲と楽毅になぞらえていたと『三国志』にある。理想を語るよりも、まず民を食べさせることから国を立て直した宰相として、中国では長く手本とされてきた。