できごと

セイラムの魔女裁判

The Salem witch trials
AD1692年
重要度 4
セイラムの魔女裁判に関わる図版:Salem witch2
Salem witch2 Wikimedia Commons Joseph E., ca. 1837-1914, artist. · Public domain

概要

牧師の娘と姪が発作を起こし、医師が「魔女の仕業」と診断した。少女たちが名を挙げ、告発が連鎖した。200人以上が告発され、19人が絞首、1人が石で圧死、5人以上が獄死した。決め手になったのは「幽霊証拠」——被害者にしか見えない霊が誰の姿をしていたか——である。マサチューセッツ総督が妻を告発されて裁判所を解散させ、幽霊証拠を禁じると、有罪はほぼ止まった。何を証拠と認めるかが、生死を分けた。

場所

セイラム
42.52°N -70.90°E · アメリカ・マサチューセッツ州

本文

1692年のマサチューセッツ湾植民地は、落ち着かない土地だった。植民地は1684年に特許状を取り消され、1691年に新しい特許状を得たばかりで、統治の仕組みが固まっていなかった。北の辺境ではフランスと先住民を相手にした戦争(ウィリアム王戦争)が続き、襲撃を逃れた人々が流れ込んでいた。天然痘があり、厳しい冬があり、土地をめぐる古い争いがあった。セイラム村(現在のダンヴァース)は隣のセイラム町から分かれようとして長く揉めており、村の牧師を誰にするかをめぐっても、住民が二つに割れていた。

1692年1月、その村の牧師サミュエル・パリスの家で、9歳の娘ベティと11歳の姪アビゲイル・ウィリアムズが奇妙な発作を起こした。叫び、物を投げ、体をねじり、家具の下に潜り込み、意味の通らない声を出した。診察した医師ウィリアム・グリッグズは原因を見つけられず、邪悪な手によるものだ、と告げた。つまり魔女の仕業である。原因については後世さまざまな推測が出た。ライ麦に付く麦角菌の中毒、脳炎、集団の心因反応、子どもの悪ふざけが引き返せなくなったもの。どれも決め手を欠いている。

セイラム魔女裁判の様子を描いた絵
セイラム魔女裁判の様子を描いた絵Wikimedia Commons William A. Crafts · Public domain

誰がお前を苦しめているのか、と繰り返し問われた少女たちは、3人の名を挙げた。パリス家の奴隷で、バルバドスから連れて来られたとされるティチュバ。物乞いをして暮らす貧しいサラ・グッド。教会に来ないことで評判の悪かった年配のサラ・オズボーン。いずれも共同体の端にいて、身を守る力の弱い人々である。ティチュバは初め否認し、やがて自白した。悪魔が黒い犬や豚の姿で現れた、本に署名した、空を飛んだ、そして自分のほかにも魔女がいる、と。この自白が告発に火を付けた。

告発は村の外へ広がり、200人以上が名指しされ、150人以上が捕らえられた。やがて奇妙な構造ができあがる。自白した者は生き延び、否認した者が処刑されるのである。絞首された19人(女性14人、男性5人)のほとんどは、最後まで罪を認めなかった人々だった。元セイラム村の牧師ジョージ・バロウズは、絞首台の上で主の祈りを一語も誤らずに唱えた。魔女には唱えられないはずの祈りだったので群衆は動揺したが、それでも刑は執行された。71歳のレベッカ・ナースは教会の敬虔な会員として尊敬されていた。陪審はいったん無罪の評決を出したが、判事が考え直すよう求め、有罪に変わった。

19世紀末に撮影されたセイラム村の牧師館
19世紀末に撮影されたセイラム村の牧師館Wikimedia Commons Henrietta D. Kimball · Public domain

80歳を超えていた農夫ジャイルズ・コーリーは、罪状の認否そのものを拒んだ。当時の法では、認否が無ければ裁判を進められなかった。認否を引き出すため、彼は板の下に寝かされ、上に石を積まれた。2日にわたって押しつぶされ、死んだ。最後に口にしたのは「もっと重しを」という言葉だったと伝えられる。黙秘の理由については、財産の没収を避けて家族に残すためだったという説明がよく語られるが、確かなことは分かっていない。このほか、少なくとも5人が獄中で死んだ。その中には乳児も含まれる。

裁判を動かしたのは「幽霊証拠」である。被害を訴える者が、あの人の霊が自分を苦しめている、と言う。その霊は本人にしか見えない。法廷で少女たちは被告を指さして悲鳴を上げ、身をよじった。被告が手を動かすと、少女たちも同じように手を動かした。これを証拠として認めるかどうかが、すべてを決めた。反対する声はあった。ハーバードの学長で牧師のインクリース・マザーは1692年秋の論考で、悪魔は無実の者の姿を借りることもできるのだから、霊の姿は有罪の証明にならない、と論じた。疑わしい魔女10人を逃すほうが、無実の者1人を罪に定めるより良い、という彼の言葉が残っている。

レベッカ・ナースの家
レベッカ・ナースの家Wikimedia Commons Henrietta D. Kimball · Public domain

1692年秋、告発の手が植民地の有力者の身内にまで伸び始めた。総督ウィリアム・フィップスの妻の名も挙がったとされる。10月29日、フィップスは魔女の審理のために設けた特別法廷を解散させた。翌1693年1月、新たな上級司法裁判所が審理を再開したが、今度は幽霊証拠をほとんど用いなかった。有罪になったのは50人を超える被告のうちわずか3人で、彼らも総督の判断で刑を免れた。5月、フィップスは残る者を釈放した。何を証拠とするかを変えただけで、有罪はほぼ止まったのである。

後始末には長い時間がかかった。1697年、植民地は悔い改めの断食日を定めた。陪審員12人が連名で謝罪文を書き、当時の自分たちにはこうした事柄を見分ける知識が無く、無実の血を招いた、と述べた。判事の一人サミュエル・シューアルは教会で自らの過ちを公に認め、以後毎年その日に断食を続けた。彼は1700年、アメリカで最も早い時期の奴隷制批判の小冊子『ヨセフの売却』も書いている。告発した少女の一人アン・パットナムは1706年、自分は人を無実の血の罪に巻き込む道具として使われた、と教会で謝罪した。1711年、植民地は多くの人の有罪判決を取り消し、遺族に賠償を払った。ただし全員ではなく、残る人々の名誉が州議会で回復されたのは2001年、最後の一人エリザベス・ジョンソンが無罪とされたのは2022年である。

セイラムは以後、アメリカで、集団の熱狂と、疑わしい証拠と、名指しの連鎖の代名詞になった。1953年、アーサー・ミラーは戯曲『るつぼ』でこの事件を描いた。上院議員ジョゼフ・マッカーシーが火を付けた共産主義者狩り、マッカーシズムの嵐の最中である。他人の名を挙げれば助かるという構造が、同じだった。ミラー自身も1956年に下院の非米活動委員会に呼ばれ、他人の名を挙げるのを拒んで議会侮辱罪で有罪とされた(のちに覆された)。

マッカーシズムに関わる図版:Anticommunist Literature 1950s
マッカーシズムWikimedia Commons Anticommunist_Literature_1950s.tiff : Myron Coureval Fagan derivative work: Comte0 ( talk ) · Public domain

ヨーロッパでは15世紀から18世紀にかけて、4万人から6万人ほどが魔女として処刑されたと推定されている(その理屈を広めた書物の一つが『魔女に与える鉄槌』である)。セイラムはその最後期の、規模としては小さな出来事にすぎない。それでもこれほど記憶されているのは、記録が細かく残り、しかも共同体が後になって自分たちの誤りを認めた、まれな例だからでもある。

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