概要
パリで文学を語り合っていた私的な集まりに目をつけた宰相リシュリューは、1635年、これを国王の認めた公の機関にした。アカデミー・フランセーズである。会員は40人に限られ、その務めは、フランス語を純粋で雄弁なものにし、芸術と学問を語るにふさわしい言葉に整えることとされた。会員は「不滅の人々」と呼ばれ、亡くなると後任が選ばれる。最初の辞書が出たのは、60年近く後の1694年だった。国が言葉の正しさを定める機関を持つ考えは、スペインなど他の国にも広がった。女性の会員が初めて選ばれたのは、1980年だった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
リシュリューAD1585年9月9日–AD1642年12月4日 · 創設した本文
17世紀のはじめ、パリの文人ヴァランタン・コンラールの家に、詩人や学者が集まって、文学と言葉について語り合っていた。私的で気楽な集まりだった。ルイ13世の宰相リシュリューは、この集まりのことを聞きつけ、国王の保護のもとに置くことを申し出た。集まった人々は、自由を失うことをためらったが、宰相の申し出を断ることはできなかった。
1635年、国王の特許状によって、アカデミー・フランセーズが正式に作られた。会員は40人と定められた。規約は、アカデミーの主な務めを、フランス語に確かな規則を与え、純粋で雄弁なものにし、芸術と学問を扱える言葉にすることだとした。そのために、辞書、文法書、修辞学の書、詩学の書を作ることが求められた。
リシュリューの狙いは、言葉と文学を、国王の権威のもとに一つにまとめることでもあった。同じ時期、彼は貴族の力を削り、ユグノーの城塞を落とし、王の中央集権を進めていた。言葉の統一は、国の統一の一部だった。
アカデミーの仕事はゆっくりと進んだ。最初の辞書が出たのは、創設から60年近くたった1694年のことだった。それでもアカデミーは、何が正しいフランス語かを決める権威として、17世紀から18世紀にかけて、フランス語が整った明晰な言葉だという評判を作るのに一役買った。フランス語は、ヨーロッパの宮廷と外交の共通の言葉になっていった。
会員は「不滅の人々」と呼ばれ、緑の刺繍の礼服を着て、剣を帯びる。会員は終身で、亡くなると、残りの会員の選挙で後任が選ばれる。ヴォルテールやユゴーも会員だったが、モリエールやルソー、プルーストのように、会員にならなかった作家も多い。1980年、作家マルグリット・ユルスナールが、初めての女性の会員に選ばれた。アカデミーは、いまも辞書の改訂を続け、英語の言葉が入り込むことに対して、フランス語の言い換えを勧めている。スペインの王立アカデミー(1713年)など、言葉を守る国の機関の手本にもなった。