人物

范縝

Fan Zhen
AD450年頃 – AD510年頃(享年60・推定)
梁重要度 3

概要

貧しい家。竟陵王の宴で「人の貴賤は花が風に落ちて畳に着くか便所に落ちるかの違い」と言って因果を否定した。「あなたが本を書き換えれば高官になれる」「私は論を売って官を買わない」。『神滅論』。武帝の時代に流されて戻り、また書いた。

関わったできごと(1)

范縝『神滅論』AD507年 · 著者

本文

字は子真。南郷舞陰(いまの河南省泌陽のあたり)の人で、450年頃に生まれたとみられる。范氏はかつて名のある家柄だったが、父の范濛が早くに死に、家は貧しかった。范縝は母に孝を尽くして育ったと『梁書』は書く。

十代の終わりに、当時の大儒劉瓛の門に入った。劉瓛のもとには数百人の弟子が集まり、多くは車馬に乗り、華やかな衣を着た貴族の子弟だった。范縝は草鞋に粗末な木綿の衣で通い、少しも恥じる様子がなかった。劉瓛は彼を見込み、成人の儀式を自ら執り行ったという。学問を深め、とくに三礼(古代の礼制の書)に通じた。性格はまっすぐで、遠慮のない議論を好み、友人たちからは煙たがられた。

南朝の斉に仕えて尚書殿中郎となり、北魏への使節にも加わった。そのころ、斉の竟陵王蕭子良は都建康の郊外の西邸に文人や学者を集めていた。のちに梁を建てる蕭衍(梁の武帝)や沈約もその仲間で、「竟陵八友」と呼ばれる。范縝もこのサロンに出入りした。蕭子良は熱心な仏教徒で、僧を招いて経を講じさせ、自ら食事を運ぶほどだった。

ある日、蕭子良は范縝に問うた。君は因果を信じないというが、それならなぜ世の中に富貴な者と貧賤な者がいるのか。范縝は答えた。人の生は一本の木に咲く花のようなものだ。同じ枝に同じように咲いても、風に吹かれて散るとき、あるものは簾をかすめて座敷の敷物の上に落ち、あるものは垣根を越えて便所の脇に落ちる。敷物に落ちたのが殿下で、便所に落ちたのが私である。貴賤の道は違っても、どこに因果があるというのか。蕭子良は言い返せなかった。

范縝はこの考えを「神滅論」にまとめた。神とは精神、魂のことである。肉体(形)と精神(神)は一つのもので、形があって神があり、形が滅べば神も滅ぶ。形は神の実体であり、神は形のはたらきである。両者の関係は、刃と鋭さの関係に似ている。刃がなくなって鋭さだけが残ることがないように、肉体がなくなって魂だけが残ることはない。輪廻も、来世の報いもない。仏教が説く因果応報の土台を、正面から崩す議論だった(范縝『神滅論』)。

蕭子良は僧たちを集めて反論させたが、范縝を屈服させることはできなかった。そこで友人の王融が説得に来た。魂が滅ぶなどという道理に外れた説に固執すれば、名教(儒教の道徳)を損なう。君ほどの才があれば中書郎にもなれるだろうに、なぜわざわざこんなことを言うのか、捨ててしまえ。范縝は大笑いして言った。もし私が論を売って官を買う気なら、とうに尚書令か僕射になっている。中書郎どころではない。

その後、宜都太守となり、任地では民が土地の神の祠を祀るのを禁じた。母の喪で官を退いたあと、旧友の蕭衍が梁を建てると、晋安太守、尚書左丞に任じられた。ところが、失脚した王亮をかばったことで武帝の怒りを買い、南の果ての広州に流された。数年後に呼び戻され、中書郎・国子博士となった。

507年頃、范縝の「神滅論」が改めて世に出ると、仏教を深く信じる武帝は自ら「臣下の神滅論に答える敕」を書いて魂の不滅を説いた。僧の法雲がこれを王侯や大臣に回し、60人余りが武帝に賛同する文を寄せた。皇帝と朝廷が一人の学者を相手に論争したのである。東宮舎人の曹思文は「難神滅論」を書いて反論したが、范縝の再反論を受け、自分の見識が浅く、その鋭い論を折ることはできなかったと認める上表をしている。武帝は范縝を罰しなかった。范縝はその後まもなく、任官中に死んだ。60歳前後だったとみられる。

武帝はやがて自ら寺に身を投じて捨身するほど仏教に傾いていく(梁の武帝の捨身)。范縝の論はその流れを止められなかった。だが、肉体と精神の関係を刃と鋭さにたとえた議論は、後漢の王充の『論衡』以来の、中国の合理的な思考の系譜に連なるものとして読み継がれた。20世紀の中国では、古代の唯物論者として教科書に載り、宗教批判の先駆けとして高く評価された。『梁書』は彼を儒林伝に収めている。論争に勝ったとは書いていない。ただ、誰も彼を言い負かせなかったことは書き残した。

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