人物

グル・ナーナク

Guru Nanak
AD1469年 – AD1539年9月22日(享年70・推定)
パンジャーブ重要度 4

概要

シク教の開祖。「ヒンドゥーもムスリムもいない」と語り、カーストも偶像も否定して、共に食事する場(ランガル)を置いた。

関わったできごと(2)

バクティ運動AD700年 · 関わったグル・ナーナクとシク教の成立AD1500年頃 · 説いた

本文

1469年、インド北西部パンジャーブ地方の村タルワンディーに生まれた。いまのパキスタンのナンカーナ・サーヒブである。家はヒンドゥーの商人階層に属し、父は村の土地と税の帳簿を預かる役人だった。土地を治めていたのはイスラーム教徒の地主で、パンジャーブはヒンドゥーとムスリムが入り混じって暮らす土地だった。

中央上に座るのがグル・ナーナク
中央上に座るのがグル・ナーナクWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

伝記によれば、幼いころから考え深く、学校の先生を問いで困らせ、ヒンドゥーの成人の儀式で聖なる紐を受けることを拒んだという。父は商売を覚えさせようと元手を渡したが、ナーナクはそれで飢えた修行者たちに食べ物を買って配り、これこそ本当の取引だと言った、という話も伝わる。こうした逸話の多くは、死後しばらくして書かれた聖者伝による。史実と伝承を分けるのは難しい。

若くして結婚し、二人の息子をもうけた。やがて町スルターンプルに移り、イスラームの領主に仕えて穀物倉の管理をした。毎朝、近くの川で沐浴し、ムスリムの吟遊詩人マルダーナと神を讃える歌をうたった。マルダーナは弦楽器を弾き、生涯の旅の道連れになる。

グル・ナーナクが記した経典(ポーティー)
グル・ナーナクが記した経典(ポーティー)Wikimedia Commons Guru Nanak · Public domain

30歳の頃、いつものように川に入ったまま、姿を消した。人々は溺れたと思ったが、三日後に戻ってきた。そして最初に口にしたのが、「ヒンドゥーもいない、ムスリムもいない」という言葉だったと伝えられる。人を宗教の名で分けることはできない、神の前ではただ人がいるだけだ、という意味に受け取られている。

その後20年あまり、旅に出た。東はベンガル、北はヒマラヤ、南はセイロン島、西はメッカやバグダードまで行ったと伝えられる。どこまでが実際の旅かは分からない。メッカでは、聖なるカアバ神殿に足を向けて寝てしまい、咎められると「では神のいない方角に私の足を向けてくれ」と答えたという話が有名である。

旅の途中、1520年頃には、ムガル朝を開く前のバーブルの軍がパンジャーブに攻め込んだ。ナーナクは町の人々が殺され、女性たちが辱められるのを見て、その悲しみと侵略者への怒りを歌に残した。捕らえられたとも伝えられる。数年後、バーブルはパーニーパットでデリーの王朝を破る(第一次パーニーパットの戦い)。

第一次パーニーパットの戦いに関わる図版:The battle of Panipat and the death of Sultan Ibrāhīm, the last of the Lōdī Sultans of Delhi
第一次パーニーパットの戦いWikimedia Commons Ẓahīr ud-Dīn Muḥammad Bābur (1483-1530) It contains 30 mostly full-page miniatures in fine Mughal style by at least two · Public domain

説いたことは単純だった。神は一つで、形を持たず、生まれも死にもせず、すべての人の内にある。儀式も巡礼も断食も偶像を拝むことも、それ自体では人を救わない。大切なのは神の名を心に念じ、正直に働いて暮らしを立て、得たものを分かち合うことだ。カーストによる差別には根拠が無く、女性を低く見る理由も無い。王たちを生む女性を、なぜ劣ると言えるのか、と歌っている。同じ時代のカビールとも通じる考えで、ヒンドゥーとイスラームの神秘主義の流れが重なり合う中から生まれた教えだった(グル・ナーナクとシク教の成立)。

旅を終えると、ラーヴィー川のほとりに村カルタールプルを開き、家族とともに畑を耕しながら暮らした。そこには弟子たちが集まり、朝と夕に歌をうたい、教えを聞いた。弟子をパンジャーブ語でシクという。

『グル・ナーナクの誕生』サルドゥル・シング画、アムリトサル、1910年頃
『グル・ナーナクの誕生』サルドゥル・シング画、アムリトサル、1910年頃Wikimedia Commons Sardul Singh · Public domain

ナーナクはそこに「ランガル」という仕組みを置いた。誰でも、身分も宗教も問わず、同じ床に並んで座り、同じ食事をとる。食事の支度も片付けも皆で受け持つ。生まれの違う者が同じ鍋から食べることを穢れとした当時のインドでは、それ自体が教えを形にしたものだった。

1539年9月22日、カルタールプルで亡くなった。70歳だった。死の前に、自分の息子ではなく、最も忠実な弟子レーナーを後継者に選び、アンガドの名を与えた。血のつながりではなく、教えに従う者が継ぐという決まりが、ここで生まれた。死後、ヒンドゥーの弟子は火葬を、ムスリムの弟子は土葬を望んで言い争った。遺体を覆っていた布を取ると、そこには花だけが残っていた、という話が伝わる。

幼いグル・ナーナクが学者ゴーパルに教える場面の線画
幼いグル・ナーナクが学者ゴーパルに教える場面の線画Wikimedia Commons Gian Singh "Naqqash" · Public domain

ナーナクの歌は、後継者たちによって書き集められ、5代目のグルが聖典にまとめた。シク教の聖典にはナーナクの作とされる900あまりの歌が収められ、ヒンドゥーやムスリムの聖者の歌も一緒に入っている。10代目のグルの後、聖典そのものがグルとされた。

1947年のインドとパキスタンの分離(インド・パキスタン分離)で、生誕地も終焉の地もパキスタン側に残った。2019年、生誕550年を記念して、インド側から国境を越えてカルタールプルの寺院へ査証なしで参拝できる道が開かれた。いま世界には2500万人ほどのシク教徒がいるとされ、寺院のランガルでは今日も、訪れた誰にでも食事が出されている。

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