トルテカのトゥーラ
概要
テオティワカンの後、メキシコ中央の中心。4.6メートルの戦士の石柱。チャクモール。ケツァルコアトルを名乗った王が追われて東へ去った、と伝える。アステカは自分たちの祖をトルテカに求め、「トルテカ」は「職人」の意味になった。1150年頃に焼かれた。
場所
20.06°N -99.34°E · メキシコ
本文
メキシコ中央高原の大都市テオティワカン(テオティワカンの隆盛)は、6世紀ごろに中心部が焼かれ、しだいに力を失った。その後の数百年、メキシコ中央には一つの大きな中心が無く、ショチカルコやカカシュトラのような山の上の都市がいくつも並び立った。その中から10世紀ごろに頭角を現したのが、いまのメキシコシティの北70〜80キロほど、イダルゴ州にあるトゥーラである。後のアステカの人々は、この町をトリャン(「葦の場所」)と呼んだ。
町の歴史は二つの段階に分けられる。7世紀ごろから始まる小さな中心は「トゥーラ・チコ」と呼ばれ、900年ごろから、少し南の高台に新しい大きな中心「トゥーラ・グランデ」が築かれた。最盛期には、周りの村を含めて数万人が住んでいたと推定されている。
トゥーラ・グランデの広場を見下ろすのが、ピラミッドBと呼ばれる五段の神殿である。その頂上には、高さ4.6メートルほどの玄武岩の戦士像が4体立っている。「アトランテス」と呼ばれるこれらの像は、胸に蝶をかたどった飾りをつけ、腰の後ろに円い鏡を背負い、手には投槍器と矢を握っている。もとは神殿の屋根を支える柱だった。ピラミッドの壁には、人の心臓を食べる鷲やジャガーの浮き彫りが並ぶ。神殿のそばには、仰向けに寝て膝を立て、腹の上に皿を載せたチャクモールと呼ばれる石像も置かれていた。皿には神々への捧げ物が置かれたと考えられている。
町の北には、蛇が人の骸骨を呑み込む浮き彫りを連ねた壁(コアテパントリ)が延び、二つの球技場と、生贄の頭蓋骨を並べた棚(ツォンパントリ)の跡がある。戦士と生贄を中心に据えた都市の姿は、のちのアステカの都テノチティトランに受け継がれていく。
トゥーラの人々は、後世「トルテカ」と呼ばれた。アステカの人々は、トルテカを、あらゆる技芸に秀でた祖先として語り伝えた。スペイン人の修道士サアグンが16世紀に集めた話によれば、トルテカは暦を知り、羽根細工や金細工や石彫りの名人で、作物はとてつもなく大きく実り、色とりどりの綿が育ったという。ナワトル語で「トルテカ」はやがて「腕の良い職人」という意味になり、「トルテカらしさ」は文明や芸術そのものを指す言葉になった。アステカ(アステカ)の王たちは、自分たちの家系をトルテカに結びつけ、支配の正しさの拠り所にした。
トゥーラにはもう一つの伝説がある。「一の葦」の年に生まれた王子、セ・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトルの話である。ケツァルコアトルは「羽毛の蛇」を意味する神の名で、王はその神官として、人ではなく蝶や蛇を捧げるよう説いたという。ところが、夜と鏡の神テスカトリポカが王をだまして酒を飲ませ、酔った王は神官としての戒めを破ってしまう。恥じた王はトゥーラを去って東へ向かい、海の向こうへ消えた。一説には、いつか戻ると言い残したともいう。こうした話は、実在の王の事績と神話が混ざり合ったもので、どこまでが史実かは分からない。
1519年は、アステカの暦でちょうど「一の葦」の年に当たっていた。その年に東の海からやって来たエルナン・コルテスを、アステカの王モクテスマ2世は帰ってきたケツァルコアトルだと信じて迎えた、という話がよく語られる。だがこの話は征服の後にスペイン人や先住民の書き手が作り上げたもので、モクテスマが本当にそう信じたかは疑わしい、というのが現在の多くの研究者の見方である。
ユカタン半島のマヤの都市チチェン・イッツァ(チチェン・イッツァの繁栄)には、トゥーラとよく似た建物がある。戦士の柱が並ぶ神殿、チャクモール、羽毛の蛇の柱、頭蓋骨の棚。トルテカの戦士がユカタンへ攻め込んだと長く説明されてきたが、交流の向きは逆だとする説、両者が共通の広い交易の網の中にあったとする説もあり、決着していない。
トゥーラは12世紀の半ばごろ、儀式の中心部が焼かれて衰えた。北から入ってきた遊牧系の人々(チチメカ)の圧力や、内部の争い、日照りなどが理由として挙げられるが、はっきりしない。のちにアステカの人々はトゥーラの廃墟を掘り返し、彫刻を持ち去って自分たちの都に運んだ。戦士像のアトランテスは、ばらばらにされて土に埋まっていた。
1940年代、メキシコの考古学者ホルヘ・アコスタがトゥーラを本格的に発掘し、埋もれていた戦士像を掘り出してピラミッドの上に立て直した。羽毛の蛇の神はテオティワカンですでに崇められ、トゥーラで王の名となって伝説を得て、アステカで大神となった。神話と歴史の継ぎ目にある都市である。