トレドの陥落
概要
キリスト教勢力が学問の都を得た。ここでアラビア語の蔵書がラテン語に訳され、ギリシアの知がヨーロッパへ戻る。
場所
39.86°N -4.03°E · スペイン
本文
トレドは、イベリア半島のほぼ真ん中、タホ川が三方を囲む岩山の町である。7世紀には西ゴート王国の都があり、711年にイスラーム勢力が半島に入ってからは、その支配下で300年以上を過ごした。11世紀の初め、コルドバの後ウマイヤ朝が崩れると、半島のイスラーム圏は「タイファ」と呼ばれる二十あまりの小王国に割れた。トレドはその一つの都になった。
小王国は互いに争い、北のキリスト教国に貢ぎ物を払って身の安全を買った。レオンとカスティーリャの王アルフォンソ6世は、その貢ぎ物で富んだ王である。彼は若いころ兄との争いに敗れて国を追われ、トレドの宮廷にかくまわれていたことがある。町の造りも、王族の内情も知っていた。

トレドの王が代替わりし、新しい王アル・カーディルが国内をまとめきれなくなると、アルフォンソはこれを好機と見た。数年にわたって町のまわりの畑を荒らし、包囲を続けた。1085年5月、トレドは降伏した。アル・カーディルには東のバレンシアを与える約束がされ、町のムスリムには財産と信仰と大モスクの保持が認められた。
アルフォンソにとって、トレドは単なる町ではなかった。かつての西ゴート王国の都を取り戻したことで、自分こそ半島の正統な支配者だと主張できる。彼はこのころから「全ヒスパニアの皇帝」と称した。

ところが翌年、王が留守の間に、大司教と王妃が大モスクを大聖堂に変えてしまった。王は約束を破られたことに怒ったと伝えられるが、モスクが戻ることはなかった。
町にはモサラベと呼ばれる、イスラーム支配のもとで信仰を守ってきたキリスト教徒が多く住んでいた。彼らは西ゴート時代からの独自の典礼を続けていたが、北から来た聖職者たちはローマ式の典礼に改めさせようとした。どちらの典礼書が正しいかを火に投じて決めたところ、古い典礼書は燃えずに残ったという伝説がある。結局ローマ式が広まったが、モサラベの典礼はいまもトレド大聖堂の礼拝堂で続けられている。
かつての都の陥落は、半島の小王国の王たちを震え上がらせた。彼らは北アフリカで力を伸ばしていたムラービト朝に助けを求めた(ムラービト朝のガーナ攻撃)。1086年、海を渡ってきたユースフ・イブン・ターシュフィーンの軍がサグラハスでアルフォンソを大敗させる。それでもトレドは取り返されず、以後キリスト教勢力の南の守りとなった。この時代の騎士エル・シドがエル・シドのバレンシア占領を果たすのは、9年後のことである。
町の性格は、すぐには変わらなかった。アラビア語を話すキリスト教徒、ユダヤ教徒、そして残ったムスリムが同じ通りに住み、図書館の蔵書も残った。12世紀の半ば、大司教ライムンドの保護のもとで、アラビア語の学術書をラテン語に移す仕事が本格的に始まる。ユダヤ人の学者がアラビア語の文を土地の言葉で読み上げ、それを聞いたキリスト教徒の学者がラテン語に書き取る、という二人組の作業も行われた。
イタリアから来たクレモナのジェラルドは、生涯に70点を超える書物を訳したとされる。クラウディオス・プトレマイオスの天文学書『アルマゲスト』、ユークリッドの『原論』、イブン・スィーナーの医学書。アリストテレスの著作も、イブン・ルシュドの注釈とともに訳された(イブン・ルシュドのアリストテレス注釈)。13世紀には、アルフォンソ10世のもとでカスティーリャ語への翻訳も進んだ。
アルフォンソ10世は、トレドの天文学者たちに天体の運行表を作らせた。「アルフォンソ表」と呼ばれるこの表は、のちにラテン語で写されてヨーロッパに広まり、コペルニクスの時代まで天文学者に使われた。
ギリシア語の学問は、シリア語とアラビア語を経て、ここでラテン語の世界に入った。12世紀から13世紀にかけてヨーロッパに生まれた大学で、学生が学んだ自然学や医学や天文学の多くは、こうした翻訳を通って届いたものである。のちに「トレド翻訳学派」と呼ばれるが、学校があったわけではなく、町に集まった翻訳者たちの仕事の総称である。