
概要
正しくは「日のもとに現れ出る呪文」。死者が冥界を通り抜けるための呪文集で、パピルスに書いて棺に納めた。中心にあるのが心臓の計量である。死者の心臓が天秤の一方に、真理の女神の羽根が他方に置かれる。釣り合えば来世へ、傾けば怪物に食われて消える。生前の行いが死後を決めるという考え方が、ここに明確な形で現れている。体を残さねば魂が戻れないので、内臓を取り出し、ナトロンで乾かし、樹脂と布で包んだ。
場所
25.72°N 32.61°E · エジプト・ルクソール
本文
**名前**。
我々が『死者の書』と呼ぶものの、本来の題は、
**「日のもとに現れ出るための書」**(**ル・ヌ・ペレト・エム・ヘルウ**)。
(現代の呼び名は、1842年にドイツのエジプト学者**カール・リヒャルト・レプシウス**が付けた「Todtenbuch」に由来する。現地のアラビア人が、墓から出るパピルスを「死者の書」と呼んでいたことによる、とされる。)
つまり、これは「死の書」ではない。**死者が、また日の光の下へ出るための書**である。
**系譜**。
エジプトの葬送の文書には、三つの段階がある。
**(1)ピラミッド・テキスト**(前2400年頃〜)。
古王国。**ピラミッドの内部の壁**に刻まれた呪文。
**王だけ**のものである。
**(2)コフィン・テキスト**(前2100年頃〜)。
中間期から中王国。**棺の内側**に書かれた。
**王以外の有力者も、使えるようになった**。
(歴史家は、これを「**来世の民主化**」と呼ぶことがある。第一中間期の中央権力の崩壊と、地方の有力者の台頭が背景にある。)
**(3)死者の書**(前1550年頃〜、新王国以降)。
**パピルスの巻物**に書かれ、棺に納められる。
**買える**。
(文房具屋のように、あらかじめ書かれた巻物が売られていた。名前を書く場所が**空白**になっていて、購入者が自分の名を入れる。
長さと、挿絵の質と、収める呪文の数で、値段が違った。
——つまり、**来世が、商品になった**。)
**内容**。
決まった一冊ではない。**呪文の集成**である。
(19世紀のレプシウスが、番号を振った。現在、**192の章**が知られている。すべてを収めた巻物はなく、それぞれが選んで組み合わせた。)
**主な呪文**。
- 口を開く儀式(ミイラが、話し、食べられるようにする) - 心臓を返してもらう - 冥界の門を通る - 蛇と、鰐と、怪物を退ける - 首を切られないようにする - **労働の代わりをさせる**(**シャブティ**——冥界で働かされるとき、代わりに働く小さな像。「私がやります」と答える呪文。裕福な墓には、365体+監督34体、計**401体**が納められた例がある)
**第125章**。
最も重要な、そして最もよく描かれる場面。
**心臓の計量**。
**場面**。
死者が、**42人の神々**の前に立つ。
冥界の広間。天秤が置かれている。
一方の皿に、**死者の心臓**。
(エジプト人は、**心臓が思考と感情と記憶の座**であると考えた。ミイラを作るとき、脳は鼻から掻き出して捨てたが、**心臓は体内に残した**。)
もう一方の皿に、**マアトの羽根**。
(**マアト**——真理、正義、秩序の女神。その象徴が、ダチョウの羽根一枚。)
**釣り合えば、通る**。
心臓が羽根より**重ければ**——罪が重ければ——
天秤のそばに座っている**アメミット**が、心臓を**食う**。
(アメミット——「食らう者」。**ワニの頭、ライオンの上半身、カバの下半身**。エジプト人が最も恐れた三つの動物の合成である。)
食われれば、**第二の死**。存在そのものが消える。来世はない。
**立会人**。
- **アヌビス**(ジャッカルの頭)——天秤を調整する。 - **トト**(トキの頭)——結果を**記録する**。書記の神である。 - **ホルス**——通った者を、オシリスの前へ導く。 - **オシリス**——冥界の王。玉座に座り、判決を下す。
**否定告白**。
そして、死者は、42人の神々の一人ひとりに向かって、**していないことを申し立てる**。
「私は、人を殺していない」 「私は、盗んでいない」 「私は、嘘をついていない」 「私は、穀物の量を偽っていない」 「私は、水路の水を堰き止めていない」 「私は、乳飲み子から乳を奪っていない」 「私は、神の供物を減らしていない」 「私は、涙を流させていない」
(**否定の形**で述べられる。「善いことをした」ではなく、「**悪いことをしていない**」。
そして、極めて具体的である。当時の共同体で、何が悪とされていたかが、そのまま読める。特に、**水の管理**と**計量の正直さ**についての項目が多い。灌漑農業の社会である。)
**そして、呪文がある**。
第30章B。**心臓に向かって語りかける呪文**。
「**わが心臓よ、わが母よ、わが心臓よ**。……
**私に敵対して立ち上がるな**。天秤のそばで、私に不利な証言をするな。……
裁く者たちの前で、私の名を悪く言うな」。
(——つまり、**自分の心臓が、自分を裏切ることを恐れている**。
彼らは、心臓が記憶を持ち、真実を知っていると考えた。だから、心臓に「黙っていてくれ」と頼む。
そして、この呪文を刻んだ**スカラベ**(甲虫の形の護符)を、ミイラの心臓の上に置いた。「**心臓のスカラベ**」。)
**ミイラ**。
なぜ、体を残すのか。
エジプトの人間観では、人は複数の要素からなる。
- **カー**——生命力。死後も供物を必要とする。 - **バー**——人鳥(人の頭を持つ鳥)の姿で描かれる。昼は外を飛び回り、**夜、体に戻る**。 - **アク**——変容した、完成した霊。 - **レン**——名前。**名が消えれば、存在も消える**。 - そして、**体(カト)**。
**バーが、夜に戻る場所が必要である**。だから、体を保存する。
(名についても同じ論理が働く。だから、記念物に名を刻む。そして、**敵の名を、記念物から削り取る**〈記憶の抹殺〉ことが、最も重い攻撃になった。ハトシェプストと、アクエンアテンが、そうされた。)
**方法**(ヘロドトスの記述と、現代の分析による)。
(1)**脳を、鼻から鉤で掻き出す**。捨てる。 (2)左脇腹を切開し、**内臓を取り出す**。肺、肝臓、胃、腸を、それぞれ**カノプス壺**に納める(守護する四神が、蓋の形になっている)。 (3)**心臓は、残す**。 (4)体を、**ナトロン**(天然の炭酸ナトリウム。ワディ・ナトルンで採れる)に埋めて、**40日**乾かす。 (5)体腔に、樹脂、亜麻布、おがくず、香料を詰めて、形を整える。 (6)**樹脂**を塗り、**亜麻布**で巻く。何百メートルも。 (7)巻きながら、**護符**を層の間に挟む。 (8)マスクをかぶせ、棺に納める。
全工程、**70日**。
**費用**。
ヘロドトスが、三つの等級を記録している。
最上級(完全な工程)、中級(内臓を取り出さず、杉油を注入して溶かす)、そして最下級(下剤で腸を洗い、ナトロンに漬けるだけ)。
**動物のミイラ**。
人だけではない。
猫、朱鷺、鷹、犬、ワニ、ヒヒ、そして牛。
**数百万体**が作られた。
(神への奉納品として売られた。参拝者が買って、神殿に納める。
そのため、**専用に飼育され、若いうちに殺された**個体が多い。CT検査で、多くの猫のミイラの首が折られていることが分かっている。
そして、中身が空か、あるいは骨の断片と泥だけの「偽物」も、少なくない。)
**その後**。
**19世紀のヨーロッパ**で、ミイラが**大量に消費された**。
- **薬**として(粉にして飲む。「ムミア」。中世から続く風習)。 - **絵の具**として(「**ミイラ・ブラウン**」。実際に、砕いたミイラを顔料に混ぜた。19世紀末まで売られていた。ある画家が、その原料を知って、絵の具を庭に埋葬した、という話が伝わっている)。 - **紙の原料**として(という説が広く語られるが、根拠は薄い)。 - **肥料**として(という話も、同様である)。 - そして、**見世物**として。「**ミイラ解体パーティー**」が、ヴィクトリア朝のロンドンで開かれた。招待客の前で、包帯を解いていく。
**現在**。
『死者の書』の写本は、世界中の博物館にある。
最も有名なのが、**アニのパピルス**(前1250年頃)。長さ**23メートル**。大英博物館。
(テーベの書記アニと、その妻ツツのために作られた。挿絵の質が、現存するものの中で最高とされる。
——1888年に大英博物館が購入したとき、輸送のために**37枚に切断された**。)
心臓の計量の場面は、その中央にある。
秤は、釣り合っている。
トトが、記録している。