フランチェスコ会の認可
概要
布商人の息子が父の前で服を脱いで捨て、「私の父は天の父だけ」。何も持たず、乞食をし、鳥に説教した。11人でローマへ。インノケンティウス3世が口頭で認めた。10年で5000人。金を持たない修道会が、中世で最も金の集まる修道会になった。
場所
43.07°N 12.62°E · イタリア
関わった人(1)
アッシジのフランチェスコAD1181年–AD1226年10月3日 · 創始本文
12世紀から13世紀の初め、イタリアの町々は商業で豊かになっていた。貨幣が回り、商人が力を持ち、司教や修道院も土地と富を抱えた。それに反発するように、福音書のとおりに貧しく生きよう、俗語で神の言葉を説こうとする人々があちこちに現れた。南フランスのヴァルド派のように、教会の許しなく説教を続けて異端とされた者もいる。同じ頃、南フランスに広がったカタリ派に対しては、1209年にアルビジョア十字軍が呼びかけられた。教会の側から見れば、清貧を求める運動は、取り込むか、さもなくば敵に回るかの瀬戸際にあった。
ウンブリアの町アッシジの裕福な布商人の息子、アッシジのフランチェスコは、その流れの中に現れた。若い頃は遊び仲間の中心で、騎士になることを夢見て隣町ペルージャとの戦いに出て捕虜になり、病を得た。その後、彼は変わった。ハンセン病の人に口づけし、崩れかけたサン・ダミアーノの小さな聖堂で、十字架のキリストから「私の家を建て直せ」という声を聞いたと伝えられる。父の布を売ってその代金を聖堂の修理に使おうとして父と争い、アッシジの司教の前で、着ていた服を脱いで父に返し、これからは天の父だけを父と呼ぶと宣言した。1206年頃のことである。

1208年、ミサで読まれたマタイによる福音書の一節が、彼の生き方を決めた。旅に金も銀も持つな、袋も、二枚の下着も、履物も、杖も持つな。フランチェスコはこれを文字どおりに受け取り、粗い布の衣を縄で締め、裸足で歩いて悔い改めを説いた。町の名士ベルナルドが財産を貧しい人に配って加わり、法律家のピエトロ、農民のエジディオらが続いた。仲間は手仕事で糧を得て、足りなければ物乞いをした。
仲間が11人になった1209年(1210年とする説もある)、フランチェスコは彼らを連れてローマへ向かった。自分たちの生き方を教会に認めてもらうためである。携えたのは、福音書の言葉をいくつか並べた短い「生活の規則」だけだった。この最初の会則は残っていない。迎えた教皇インノケンティウス3世は、教皇権の絶頂を築いた人物で、第四回十字軍を呼びかけ、異端との戦いを進めていた。何も持たずに暮らすという規則は、人には厳しすぎるのではないか、と心配する枢機卿もいた。アッシジの司教と、ある枢機卿の取りなしがあったと伝えられる。教皇は最後に、口頭で彼らの生き方を認め、説教することを許した。数が増えたら戻ってきなさい、そのときもっと多くを認めよう、と言ったとされる。正式な文書は出なかった。

後の伝記によれば、教皇はその頃、ローマのラテラノ大聖堂が傾き、粗末な身なりの小柄な男が肩で支えている夢を見ていた。アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の上の堂には、この場面を描いた壁画がある。ジョットの作と長くされてきたが、その帰属には議論がある。夢の話そのものも、教会を救う者としてフランチェスコを描こうとした後世の物語と考えられている。
彼らは自らを「小さき兄弟(フラトレス・ミノーレス)」と呼んだ。最も低い者たち、という意味である。広がりは速かった。1212年には、アッシジの貴族の娘クララが家を出て加わり、女性のための共同体(のちのクララ会)が生まれた。1215年の第4ラテラノ公会議は新しい修道会の会則を作ることを禁じたが、小さき兄弟はすでに教皇の口頭の認可を受けていたため、存続を認められた。会員はイタリアから、フランス、スペイン、ドイツ、イングランドへと送り出され、1220年代の初めの総会には数千人が集まったと伝えられる。同じ頃にはスペイン出身のドミニコが説教者の修道会を作った(ドミニコ会の認可)。二つの托鉢修道会は、修道院にこもらず町の中で人々に説く、新しい宗教生活の形を作った。

フランチェスコ自身は、組織の長にふさわしい人ではなかった。1219年には第五回十字軍の陣にいたエジプトのダミエッタへ行き、戦線を越えてスルタンのアル・カーミルに会い、信仰を説いた。スルタンは彼を丁重に扱って送り返したと、同時代の記録も伝えている。帰ってみると、会は急激に大きくなり、学問を修め、家を持とうとする兄弟が増えていた。1221年に長い会則が書かれ、1223年、教皇ホノリウス3世が勅書で正式な会則を認めた。何も所有せず、金銭を受け取らないという原則は残ったが、表現は和らげられた。フランチェスコは会の運営から身を引き、1224年にラ・ヴェルナの山で、両手両足と脇腹にキリストと同じ傷を受けたと伝えられる。晩年には、太陽を兄弟、月を姉妹、死をさえ姉妹と呼ぶ「太陽の讃歌」をウンブリアの言葉で作った。イタリア語の文学で最も古い作品の一つに数えられる。1226年10月、40代半ばで死に、2年後に聖人とされた。
彼の死後、清貧の原則は会の最大の争いの種になった。教皇たちは、建物や本は会のものではなく教皇庁のもので、兄弟たちはそれを使うだけだという理屈を作った。所有と使用を分けるのである。これに対し、創始者の言葉どおりの貧しさを求める厳格な一派(霊性派)は、会の多数派と激しく対立した。14世紀の初め、教皇ヨハネス22世は、キリストと使徒たちが何も所有しなかったと言い張ることを異端とした。会の総長やオッカムのウィリアムは教皇と真っ向から争い、亡命した。所有とは何か、使うこととどう違うかという議論は、のちの財産権の思想にも影響を残した。会は分裂と改革を繰り返し、1517年、厳格な原則を守る派とそうでない派が正式に別の会に分かれた。
金を持たないことを誓った修道会は、結局、ヨーロッパで最も大きく、最も多くの寄進を集める修道会の一つになった。その矛盾を抱えながら、小さき兄弟たちは中世の終わりまで、町の説教、大学の学問、そして宣教で大きな役割を担った。鳥に説教した話や、グッビオの町を荒らした狼を説き伏せた話は、14世紀にまとめられた『小さき花』などの伝承である。2013年、アルゼンチン出身の新しい教皇は、歴代の教皇で初めてフランシスコの名を選んだ(教皇フランシスコの選出)。