人物

范仲淹

Fan Zhongyan
AD989年 – AD1052年(享年63・推定)
北宋重要度 4

概要

2歳で父を失い、母が再婚し、朱説と名乗って育った。寺で粥を凍らせて4つに分けて食べた。進士。西夏との戦いで「小范老子」。慶暦の改革。「岳陽楼記」。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。義荘。一族のための田。中国の福祉の始まり。

関わったできごと(1)

慶暦の改革AD1043年 · 改革

本文

989年、蘇州の呉県を本籍とする家に生まれた。宋が中国を統一してまだ間もないころである。2歳のとき、地方の役人だった父が任地で死んだ。頼るもののない母は、息子を連れて山東の朱という家に再嫁した。少年は朱説という名で、朱家の子として育った。

范仲淹
范仲淹Wikimedia Commons Public domain

20歳を過ぎたころ、朱家の兄弟たちのぜいたくをたしなめたところ、お前は朱家の者でもないくせに、と言い返された。自分が范家の子であることを、彼はそこで初めて知ったと伝えられる。彼は泣いて母に別れを告げ、自分の力で身を立てると誓って家を出た。向かったのは、応天府、いまの河南省商丘にあった書院で、各地から学生が集まる名高い学校だった。

そこでの暮らしは、のちに語り草になった。彼は夜に粟の粥を一鍋炊き、一晩おいて固まったものを刀で四つに切り分け、朝に二切れ、夕に二切れ、刻んだ漬け菜を添えて食べた。冬の夜、眠気に襲われると冷たい水で顔を洗って書物に向かった。5年の間、衣を脱いで寝床に入ったことがなかったという。この苦学の話は「断齏画粥」の言葉で知られる。ある日、皇帝がこの地を通り、町中の人が見物に出たときも、彼は一人で読書を続けた。いずれお目にかかる日が来る、と言って。

岳陽楼
岳陽楼Wikimedia Commons 安正文 · Public domain

1015年、科挙に合格して進士となった(宋の科挙と士大夫)。役人となった彼は、范の姓に戻り、母を引き取って孝養を尽くした。最初に名を上げたのは、江蘇の海辺の泰州で、高潮から田畑を守る長い堤防を築いたことだった。のちに人々はこれを范公堤と呼んだ。

彼の名を高めたのは、権力に遠慮せずに物を言う姿勢だった。若い仁宗の上に立って政治を握っていた劉太后に対し、皇帝が百官を率いて太后の長寿を祝う儀礼は筋が通らないと上奏し、地方に出された。仁宗が親政を始めて都に呼び戻されると、今度は皇后を廃することに反対して、また地方へ出された。三度目は、宰相の呂夷簡が身内ばかりを引き立てていると、官僚の昇進の図を作って批判し、左遷された。このとき彼をかばった欧陽脩らも、徒党を組んでいるとして都を追われた。

范仲淹の肖像
范仲淹の肖像Wikimedia Commons Wang Qi (王圻) and Wang Siyi (王思義) (Life time: Wang Qi died in 1612, Wang Siyi is his son and highly unlikely to have live · Public domain

三度目の左遷の送別の席で、友人は言った。初めのときは光栄なことだった。二度目はますます光栄だった。今度はいよいよ光栄だ。范仲淹は笑って、私はこれで前後三度の光栄を得た、と答えたという。

1038年、西北の西夏で李元昊が皇帝を称し、宋に背いた。宋軍は大敗を重ねた。1040年、范仲淹は韓琦とともに陝西の防衛を任された。韓琦は大軍で攻め込むべきだと主張し、范仲淹は守りを固めるべきだと説いた。彼は辺境に城や砦を築き、兵の編成を改めて訓練し、周辺の羌族の部族を手厚く扱って味方につけた。辺境の人々は歌った。軍中に一人の韓がいれば、西の賊は聞いて肝を冷やす。軍中に一人の范がいれば、西の賊は聞いて胆を潰す。西夏の側も、今度の小范老子(范の旦那)は胸の中に数万の兵を持っている、と恐れたという。1044年、宋と西夏は和議を結んだ。

1043年、仁宗は彼を都に呼び、副宰相にあたる参知政事に任じた。范仲淹は十か条の改革案を出した。無能な官僚を退け、縁故による任官を減らし、科挙の内容を改め、地方の役人の質を上げ、農業を振興する。慶暦の改革である(慶暦の改革)。彼は各地の役人の名簿を見て、不適格な者の名に次々と筆で線を引いた。一家が泣くことになる、と同僚がたしなめると、一家が泣くのと、一つの地方が泣くのと、どちらがよいか、と答えたと伝えられる。

だが、既得権を奪われる官僚たちの反発は激しく、彼らが徒党を組んでいるという非難が再び起こった。改革は1年あまりで行き詰まり、彼は自ら願い出て地方へ出た。改革の志は、20年あまり後、より大がかりな王安石の新法に受け継がれていく。

1046年、河南の鄧州にいた彼のもとに、旧友の滕子京から手紙が届いた。左遷先の岳州で、洞庭湖を望む岳陽楼を修築したので、その記念の文章を書いてほしいという。添えられていたのは、洞庭湖の景色を描いた図だった。范仲淹はこのとき岳陽楼を訪れずに書いたとする見方が一般的である。

こうして書かれた「岳陽楼記」は、湖の晴れた日と雨の日の景色を描き分け、人の心が景色に左右されることを述べたあと、古の仁人の心に話を移す。朝廷の高い位にあれば民を憂え、遠い地方にあっては君主を憂える。では、いつ楽しむのか。天下の人々が憂えるより先に憂え、天下の人々が楽しんだ後に楽しむのだ。この言葉は、中国の士大夫、つまり学問を修めて政治を担う人々の理想として、いまも暗唱されている。

晩年、彼は故郷の蘇州に田地を買い、その収穫で一族の貧しい者を養う仕組みを作った。范氏義荘である。結婚や葬式の費用を出し、食べるものに困る者に米を配り、一族の子弟の教育を支えた。一族の互助の組織として、これは中国で最初期の例とされ、後世、各地の名門がこれにならって義荘を作った。范氏義荘は代々の子孫に受け継がれ、800年以上にわたって続いた。蘇州では、学校を作るのにふさわしい土地として自分の屋敷の地を差し出し、府学を開いてもいる。

1052年、新しい任地へ向かう途中、徐州で病に倒れて死んだ。数え64歳だった。贈られた諡は「文正」。文官に与えられる最高の諡とされ、後世、多くの政治家が自分もこの諡を得たいと願った。

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