概要
2歳で父を失い、母が再婚し、朱説と名乗って育った。寺で粥を凍らせて4つに分けて食べた。進士。西夏との戦いで「小范老子」。慶暦の改革。「岳陽楼記」。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。義荘。一族のための田。中国の福祉の始まり。
関わったできごと(1)
慶暦の改革AD1043年 · 改革本文
蘇州呉県。2歳で父が死に、母が朱氏と再婚した。朱説と名乗って育った。自分が范家の子だと知って、家を出て、応天府の書院で学んだ。粥を1鍋煮て、冷えて固まったのを4つに切って、朝と夜に2つずつ、塩漬けの菜と食べた。「断齏画粥」。
1015年、進士。范の姓に戻った。母を引き取った。
宦官と太后に逆らって、3回、地方へ出された。「范仲淹の三度の左遷」。3回目のとき、送別の席で友人が「今回はますます光栄だ」と言った。
1040年、西夏。陝西経略安撫副使。韓琦が攻めろと言い、范仲淹は守れと言った。砦を築き、兵を訓練し、羌族を味方にした。「軍中に一范あり、西賊は胆を破る」。西夏の側は「小范老子は胸中に数万の甲兵あり」と言った。1044年、和議。
1043年、慶暦の改革。1年で終わった。地方へ。1046年、岳州の知事の滕子京が岳陽楼を直して、記を頼んだ。范仲淹は岳陽楼に行っていない。絵を見て書いた。「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」。
蘇州に義荘を作った。一族のために田を買い、その収入で一族の貧しい者を養う。范氏義荘は1949年まで、900年続いた。
1052年、赴任の途中、徐州で死んだ。63歳。「文正」。中国の官僚で最も名誉ある諡。