できごと

宇宙が膨張している

Hubble's law
AD1929年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国メキシココロンビアニカラグアホンジュラスキューバグアテマラパナマAD1929年ウィルソン山天文台
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1929年の版図を描いています(11勢力)。

概要

ウィルソン山の口径2.5メートルの望遠鏡で、エドウィン・ハッブルは、遠くの星雲までの距離を測った。それらは、銀河系の中の雲ではなく、はるか外にある別の銀河だった。宇宙の大きさが、一挙に広がった。さらに、それらのスペクトルが赤くずれていた。遠いものほど、速く遠ざかっている。距離と速度が比例する。宇宙は、静止していない。膨張している。ルメートルが2年前に同じ結論を理論から導いていたが、フランス語の無名の雑誌に載っていた。

場所

ウィルソン山天文台
34.23°N -118.06°E · アメリカ・カリフォルニア州

本文

1920年4月26日、ワシントンのスミソニアン協会で、二人の天文学者が一つの問いをめぐって公開の討論をした。夜空に見える渦巻きの形をした星雲は、いったい何なのか。ハーロー・シャプレーは、それは私たちの銀河系の中にあるガスの雲であり、宇宙とは銀河系一つのことだと考えた。ヒーバー・カーティスは、それは銀河系のはるか外にある、銀河系と同じような独立した星の大集団だと考えた。後に「大論争」と呼ばれるこの討論は、決着がつかなかった。決め手は星雲までの距離だったが、それを測る方法がなかったからである。

距離を測る物差しは、意外な場所で作られていた。ハーヴァード大学の天文台では、写真の乾板に写った星の明るさを測る仕事に、女性たちが安い給料で雇われていた。その一人ヘンリエッタ・スワン・リーヴィットは、南の空の小マゼラン雲にある、明るさが周期的に変わる星を調べていた。1908年と1912年、彼女は、セファイドと呼ばれる種類の変光星では、明るさが変わる周期が長いものほど、本当の明るさも明るいという規則を見つけた。周期は観測で測れる。周期から本当の明るさが分かれば、見かけの明るさと比べて、その星までの距離が計算できる。宇宙の遠くを測る最初の物差しだった。しかし彼女は、その意味を自分で追いかけることを許されず、測定の仕事を続けさせられた。1921年、彼女は53歳で癌のために亡くなった。数年後、スウェーデンの数学者が彼女をノーベル賞に推そうとして、すでに亡くなっていることを知ったという。

WMAPによる宇宙マイクロ波背景放射の観測図(2012年)
WMAPによる宇宙マイクロ波背景放射の観測図(2012年)Wikimedia Commons NASA / WMAP Science Team · Public domain

この物差しを遠い星雲に当てたのが、エドウィン・ハッブルである。1889年にミズーリ州で生まれ、シカゴ大学で数学と天文学を学んだ後、奨学生としてイギリスのオックスフォードに渡り、法律を学んだ。帰国してしばらく高校で教えた後、天文学に戻り、博士号を取り、第一次世界大戦に従軍した。彼は自分の経歴を飾って語る癖があり、ボクシングでプロに誘われた、弁護士として開業したといった話には裏づけがない。イギリス風の話し方をし、パイプとツイードの服を好み、同僚の中にはそれを冷ややかに見る者もいた。

1919年、ハッブルはロサンゼルスの北にあるウィルソン山天文台に職を得た。そこには1917年に完成した、口径2.5メートルのフッカー望遠鏡があった。当時、世界最大の望遠鏡である。建設を率いたジョージ・エラリー・ヘールは、生涯に何度も「世界最大」の望遠鏡を作った人だった。鏡のガラスはフランスで作られ、中に気泡が入っていたが、ヘールはそれを使う決断をした。初めて星に向けた夜、昼の熱が鏡に残っていて像がぼやけ、ヘールは絶望したが、夜更けに温度が落ち着くと、くっきりした像が現れたと伝えられる。

ハッブル定数を求める3段階の方法
ハッブル定数を求める3段階の方法Wikimedia Commons NASA, ESA, A. Feild (STScI), and A. Riess (STScI/JHU) · CC BY 4.0

1923年10月、ハッブルはこの望遠鏡でアンドロメダ星雲を撮影していた。乾板の上に、新しく現れた星のような点を見つけ、彼は新星を意味する「N」の印を付けた。ところが過去の乾板と比べると、それは新星ではなく、明るさが周期的に変わる星、つまりセファイド変光星だった。彼はNの印を消して、「変光星!」と書き直した。その乾板は今も天文台に残っている。

ハッブルはこの星の周期から、アンドロメダ星雲までの距離を約90万光年と見積もった。いまの値は約250万光年で、彼の値は3分の1ほどにすぎない。セファイドに性質の違う二つの種類があることが、当時は知られていなかったためで、1952年にそれが分かると、宇宙の大きさの見積もりは一挙に倍以上になった。それでも、当時の銀河系の大きさの見積もりからすれば、90万光年ははるか外である。アンドロメダは、銀河系の外にある別の銀河だった。1925年1月1日、彼の結果はアメリカ天文学会で代読され、発表された。結果を知らせる手紙を受け取ったシャプレーは、これは私の宇宙を壊した手紙だ、という意味のことを言ったと伝えられる。銀河系は宇宙のすべてではなかった。数えきれない銀河の一つにすぎなかったのである。

ハッブル定数のさまざまな測定値を示す図(2021年)
ハッブル定数のさまざまな測定値を示す図(2021年)Wikimedia Commons NOIRLab/NSF/AURA/J. da Silva · CC BY 4.0

次の問いが待っていた。アリゾナのローウェル天文台のヴェスト・スライファーは、1912年から渦巻き星雲の光をプリズムで分けて調べ、その多くが赤い方にずれていることを見つけていた。遠ざかっていく光源の光は、波長が引き伸ばされて赤い方へずれる。救急車のサイレンが遠ざかるときに低く聞こえるのと同じ原理である。つまり、多くの銀河は私たちから遠ざかっていた。

1929年、ハッブルは、自分が測った銀河までの距離と、主にスライファーが測った遠ざかる速さを、一枚の図に並べた。観測と計算の多くを担ったのは、助手のミルトン・ヒューメイソンだった。彼は14歳で学校をやめ、天文台を建てる資材を運ぶラバ引きとして山に来て、用務員になり、やがて夜の観測の助手になった人で、その観測の腕は誰もが認めるほど確かだった。図は、はっきりした傾向を示していた。遠い銀河ほど、速く遠ざかっている。距離と速さが比例しているのである。米国科学アカデミーの紀要に載ったその論文は、わずか6ページだった。

さまざまな宇宙学的手法によるハッブル定数の推定値(2025年頃)
さまざまな宇宙学的手法によるハッブル定数の推定値(2025年頃)Wikimedia Commons Jackson Levi Said · CC BY 4.0

その意味は、宇宙が膨張しているということだった。銀河が空っぽの空間の中を一点から飛び散っているのではない。空間そのものが伸びている。だから宇宙に中心はなく、どの銀河から見ても、ほかの銀河はみな遠ざかって見える。そして時間を逆にたどれば、宇宙はかつて小さく、熱く、密だったことになる。のちのビッグバンの考えは、ここから育っていく(宇宙のはじまりの残り火)。

実は、同じ結論にもっと早く達していた人がいた。ベルギーの司祭で物理学者のジョルジュ・ルメートルである。1927年、彼は一般相対性理論の方程式から膨張する宇宙の解を導き、すでにあった観測の数字から、膨張の比例の定数まで計算していた。しかしその論文は、ベルギーの学会のフランス語の雑誌に載り、ほとんど読まれなかった。彼はこの結果をアインシュタインに話したが、あなたの計算は正しいが、物理は受け入れがたい、という意味の返事をされたと回想している。アインシュタイン自身は宇宙が静止していると考え、そのために方程式に宇宙定数という項を加えていた。後に彼がそれを生涯最大の失敗と呼んだという話は、物理学者ガモフの回想にしか出てこない。皮肉なことに、宇宙定数は1998年の発見によって形を変えてよみがえることになる。

1931年、ルメートルの1927年の論文がイギリスの学会誌に英訳されて載ったが、膨張の定数を計算した部分が抜けていた。長いあいだ、ハッブルの手柄を守るために誰かが削ったのではないかと疑われてきた。2011年、残された手紙の調査で、ルメートル自身が、その部分はすでにハッブルのより良い観測に取って代わられているとして、翻訳から外していたことが分かった。2018年、国際天文学連合は会員の投票を経て、この法則を「ハッブル=ルメートルの法則」と呼ぶよう勧めた。

膨張の速さを表す定数の値は、長く論争の的になった。ハッブル自身の値は、いまの値の7倍ほども大きかった。距離の測り方が改められるにつれて値は下がり、いまは1メガパーセクあたり毎秒67キロから73キロほどとされる。ところが、宇宙の初めの光から求めた値と、近くの銀河を直接測って求めた値が、誤差の範囲を超えて食い違っている。この食い違いには、まだ答えが出ていない。1998年には、遠くの超新星の観測から、宇宙の膨張がむしろ加速していることが分かった。その原因とされる正体不明の「暗黒エネルギー」は、宇宙の中身の7割近くを占めると見積もられている。

ハッブルはノーベル賞を受けなかった。当時、天文学は物理学賞の対象と見なされておらず、彼は広報の担当者を雇ってまで、その考えを変えさせようとしたと言われる。1953年9月28日、彼は脳卒中で亡くなった。63歳だった。ノーベル賞は亡くなった人には贈られない。

1990年、彼の名を冠したハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられた。鏡の研磨に誤りがあって像がぼやけたが、1993年にスペースシャトルの飛行士たちが補正の装置を取り付け、その後30年以上にわたって宇宙の姿を送り続けている。ウィルソン山の望遠鏡は、いまも山の上にある。しかし、ふもとのロサンゼルスの街の明かりのために、遠い宇宙の観測にはほとんど使えなくなった。宇宙の大きさを初めて測った場所から、いまは宇宙がよく見えない。

動画(1)

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