トマス・アクィナス『神学大全』

概要
ドミニコ会士がアリストテレスでキリスト教を体系にした。3部、512の問題、2669の項目。「信仰と理性は矛盾しない」。神の存在の五つの道。1273年12月、ミサの後で書くのをやめた。「私が見たものに比べれば、藁のようだ」。3か月後に死んだ。未完。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
トマス・アクィナスAD1225年–AD1274年3月7日 · 著者本文
1273年12月のある朝、イタリアのナポリで、ドミニコ会の修道士トマス・アクィナスはミサを捧げたあと、ぱたりと筆を置いた。8年近く書き続けてきた大著『神学大全』は、キリストの秘跡を論じる途中で止まったまま、二度と書き継がれなかった。理由を尋ねた秘書の修道士レギナルドに、トマスは、自分が見たものに比べれば、自分が書いたものはすべて藁のように思える、と答えたと伝えられる。3か月後、トマスは49歳ほどで世を去った。未完のまま残されたこの書物は、それから数百年にわたり、カトリック神学の柱となった。
トマスが生きた13世紀のヨーロッパは、知の大きな揺れのただ中にあった。12世紀から、スペインのトレドやシチリアで、アラビア語に訳されていたギリシアの学問がラテン語に訳し直され、西ヨーロッパに流れ込んだ。なかでも衝撃を与えたのがアリストテレスの著作である。論理学だけでなく、自然学、形而上学、倫理学、政治学にわたる、神の啓示に頼らない理性の体系。それとともに、コルドバのイスラーム哲学者イブン・ルシュドの詳しい注釈(イブン・ルシュドのアリストテレス注釈)や、ペルシアのイブン・スィーナー、ユダヤ教徒のマイモニデスの著作も読まれるようになった。新しく生まれたパリ大学(パリ大学の成立)では、若い学者たちがこれに熱中した。だが、世界には始まりがないとするアリストテレスの説や、人類全体で一つの知性を共有するという解釈は、聖書の教えと真っ向からぶつかる。教会の中には、異教の哲学は信仰を危うくすると警戒する声が強かった。

トマスは1225年ごろ、ナポリの北のロッカセッカの城で、貴族の家に生まれた。家族は彼を有力な修道院の院長にするつもりだったが、トマスは創設されてまだ間もない托鉢修道会、ドミニコ会(ドミニコ会の認可)に入る道を選んだ。怒った兄たちは彼を捕えて1年ほど城に閉じ込めたが、決心は変わらなかったと伝えられる。パリとケルンで、博学のアルベルトゥス・マグヌスに学んだ。大柄で口数が少なく、仲間から「シチリアの唖の牛」とあだ名されたが、師のアルベルトゥスは、この牛の鳴き声はいずれ世界中に響くだろう、と言ったという話が残っている。
『神学大全』は、1265年ごろから、ローマ、パリ、ナポリと場所を移しながら書き継がれた。トマスは序文で、この本は神学を学び始めたばかりの者のために書く、と述べている。これまでの書物は、無用な問題を増やし、教えるべき順序に従わず、同じことを繰り返して、初学者を混乱させてきた。だから順序立てて、簡潔に書く、というのである。「初学者向け」の本が、全体で数千ページに達する大著になった。

本は大きく三部に分かれる。第一部は神そのもの、神による世界の創造と、天使や人間について。第二部は、人間が神へと向かう道としての人間の行為、つまり幸福、徳と悪徳、法、恩寵について論じ、さらに二つに分けられて最も分量が多い。第三部は、神と人とを結ぶキリストと、教会の秘跡を扱う。神から出たすべてのものが、キリストを通って神へ還る、という大きな円が全体の設計になっている。第三部が途中で止まったため、残りはトマスの死後、弟子たちが彼の若い頃の著作から関係する部分を抜き出して「補遺」として補った。
形式もまた独特である。全体は数百の「問題」に分かれ、それぞれの問題はいくつもの「項」から成る。各項は一つの問いで始まる。たとえば第一部の第二問第三項は「神は存在するか」と問う。トマスはまず、神は存在しないと思われる、と反対の立場の論拠を挙げる。続いて「しかし反対に」として権威ある言葉を示し、「私は答える」で始まる本論で自分の考えを述べ、最後に最初の異論の一つひとつに答える。大学での公開討論のやり方を紙の上に移したもので、反対の意見を最も強い形で示してから退ける。この形式そのものが、理性で考え抜くことへのトマスの信頼を表している。
神の存在を論じるこの項で、トマスは「五つの道」と呼ばれる論証を示した。世界には動くものがあり、動かすものをさかのぼれば最初に動かすものがあるはずだ。原因をさかのぼれば最初の原因がある。存在しなくてもよいものばかりでは説明がつかず、必然的に存在するものがある。より善いもの、より真なるものという段階があるなら、最高のものがある。知性を持たない自然のものが目的に向かって秩序正しく働くのは、それを導く知性があるからだ。トマスはこう論じて、それを人びとは神と呼ぶ、と結ぶ。多くの論点はアリストテレスに負っていた。
トマスの根本の考えは、信仰と理性は矛盾しない、ということだった。どちらも同じ神から来る真理なのだから、正しく用いた理性が信仰に反する結論に至ることはない。理性で知りうることと、啓示によってしか知りえないことがあり、後者は理性を超えるが理性に反するものではない。彼は、恩寵は自然を破壊せず、かえってそれを完成させる、と書いた。本の中でアリストテレスは名前を呼ばれず、ただ「哲学者」と呼ばれ、イブン・ルシュドは「注釈者」、マイモニデスは「ラビ・モーセ」として引かれる。異教徒、ムスリム、ユダヤ教徒の思想家たちの言葉を、キリスト教の神学の体系の中に組み込んだのである。
それは当時、危うい試みでもあった。1270年と1277年、パリの司教はアリストテレス主義の行き過ぎとみなした説を断罪し、1277年に禁じられた219の命題の中には、トマスの考えに関わるものも含まれていたとされる。トマスの名誉が完全に回復されるのは、彼が聖人とされた後のことである。トマス自身の晩年には、ほかの修道会の神学者たちとも激しい論争があった。
筆を置いた翌年の1274年初め、トマスは教皇に招かれて、フランスのリヨンで開かれる公会議に向かった。その途中で体調を崩し、ローマの南のフォッサノーヴァの修道院で3月7日に息を引き取った。道中で木の枝に頭を打ったのがきっかけだという話も伝わっている。1323年、トマスは聖人の列に加えられ、1567年には「教会博士」の称号を贈られた。ダンテ・アリギエーリは『神曲』の天国篇で、太陽の天にいる賢者たちの一人としてトマスを登場させ、他の賢者たちを紹介する案内役を務めさせている。

16世紀のトリエント公会議では、聖書と並んで『神学大全』が議場に置かれたという言い伝えがある。19世紀の1879年には、教皇レオ13世が回勅でトマスの哲学を学ぶよう全教会に勧め、トマスの体系は近代のカトリックの学問の土台に据えられた。神学大全の「大全(スンマ)」とは、すべてをまとめたもの、という意味である。理性の届くかぎりすべてを一つの体系に収めようとした書物は、その著者自身が藁のようだと言った地点で終わっている。言葉と論理を尽くしたその先に言葉にならないものがあることを、この本は自らの終わり方で示している。