円筒分水
概要
多摩川から水を引く二ヶ領用水では、下流の村々が水の分け方をめぐって、江戸時代から何度も争ってきた。堰の板を一枚ずらせば、隣の村の田が干上がる。神奈川県の技師平賀栄治は、水を円い筒の真ん中から噴き上げさせ、縁から四方へ溢れさせる装置を設計した。縁の長さを、それぞれの用水路が潤す田の広さに合わせて区切っておけば、水の量が増えても減っても、分かれる割合は変わらない。人が板を動かす余地がないので、疑う余地もない。争いを、話し合いではなく形で終わらせた。この形は、全国の農村に広まった。
場所
35.60°N 139.61°E · 日本・神奈川県川崎市
本文
江戸時代の初め、徳川家康が江戸に入って間もない1597年、家康の家臣の小泉次大夫が、多摩川から水を引く用水の工事に取りかかった。14年をかけて完成した用水は、多摩川の南岸に広がる稲毛領と川崎領の二つの領地を潤したことから、二ヶ領用水と呼ばれる。それまで水の乏しかった多摩川下流の南の平野は、この用水によって一面の田に変わった。いまの川崎市の大半にあたる土地である。50年あまり後には、多摩川の上流から江戸の町へ飲み水を引く玉川上水も開かれ、多摩川の水は江戸とその周りの暮らしを支える命綱になっていった。
用水は、平野を流れ下る途中でいくつもの堀に枝分かれし、それぞれが別の村々の田を潤した。分かれ目では、堰に板をはめて水の流れる量を振り分ける。その板が、争いのもとだった。板を一枚ずらせば、こちらの堀には多く、あちらの堀には少なく水が流れる。日照りの年には、夜のうちにこっそり板を動かす者が出る。村は見張りを立て、相手の村を疑い、ときには鍬や鎌を手に村人どうしがにらみ合った。

江戸時代を通じて、二ヶ領用水の水をめぐる争いは何度も起きた。18世紀には、川崎宿の名主で農政に通じた田中休愚(丘隅)が用水を改修し、分かれ目の一つの久地に、水を割合に応じて分ける木の樋を設けたとされる。それでも争いは絶えなかった。役所が裁いても、次の日照りの年にはまた起きる。上流の村は自分の田を先に潤したく、下流の村は自分の取り分が減らされていると疑う。分け方そのものに、人の手が入る余地がある限り、疑いは消えなかった。
昭和に入っても争いは続いた。神奈川県の農業土木の技師、平賀栄治(1892〜1982年)は、この古い問題に取り組んだ。彼の考えは明快だった。人が動かせる板があるから争いになる。それなら、人が動かせるところを無くしてしまえばよい。そして、分け方が誰の目にも見えるようにすればよい。

1941年(昭和16年)、久地に新しい分水の施設が完成した。用水の水は、まず近くを流れる平瀬川の下を管でくぐり抜けてくる。管の出口は円い池の真ん中にあり、水はサイフォンの仕組みで、池の中心の円い筒の中から湧き出すように噴き上がる。筒いっぱいに上がった水は、筒の縁を越えて四方へ均等に溢れ落ちる。溢れた水を受ける外側の円は、壁で四つに区切られ、それぞれが別の堀へ水を送り出す。
肝心なのは、その区切り方だった。外側の円周の長さを、それぞれの堀が潤す田の広さに比例するように分けたのである。最も広い田を受け持つ川崎堀には、円周のおよそ4分の3が割り当てられ、ほかの三つの堀には、田の広さに応じた狭い幅が割り当てられた。

この形の優れたところは、水の量が変わっても、分かれる割合が変わらないことにある。水の多い日も少ない日も、水は筒の縁のどこからでも同じように溢れる。だから、縁の長さの割合が、そのまま水の分かれる割合になる。動かせる板は一枚も無い。人が手を加える余地が無く、水が四つに分かれていく様子は、池のほとりに立てば誰の目にも見える。疑う余地が無いので、争う理由も無くなった。
円い筒から水を溢れさせて分けるという考えは、平賀が最初ではなく、大正のころから各地で試みられていたとされる。だが、久地の円筒分水は、規模の大きさと分け方の精密さで知られ、見学に訪れる技術者も多かった。戦後、同じ仕組みの分水は全国の農村に広まり、東海や北陸、九州などの田んぼの用水で、いまも数多く使われている。

久地の円筒分水は、1998年に国の登録有形文化財になった。周りの土地はすっかり住宅地に変わり、二ヶ領用水が潤した田は、いまではほとんど残っていない。それでも水は、いまも円い筒の縁から溢れ続けている。用水は桜並木の続く散歩道として、川崎の人々に親しまれている。
限られた水を、隣り合う人々でどう分けるか。この問いへの答え方は、場所によって違った。スペインのバレンシアでは、農民の代表が毎週集まって、その場で争いを裁く法廷を800年近く続けてきた(水の法廷)。久地の円筒分水は、裁く場を設けるのではなく、争いの起きない形を作った。裁く人も、見張る人も要らない。
ただし、形に任せるためには、何が公平かを先に決めておかなければならない。円周をどう区切るかを決めたのは、田の広さを測り、村々と話し合った人間だった。形は、人が合意した公平を、誰も手を出せない仕組みに閉じ込めて守り続ける。円筒分水が教えているのは、公平を保つ仕掛けと、公平を決める話し合いとは、別のものだということである。