『種の起源』

概要
種が変化することを膨大な観察で示した。人間が特別ではないという考えが広がる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
チャールズ・ダーウィンAD1809年2月12日–AD1882年4月19日 · 著者本文
1859年11月24日、ロンドンの出版社からチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が出た。正式な題は『自然選択による種の起源について、あるいは生存競争において有利な品種が保存されることについて』という長いものである。初版1250部は、書店からの注文で発売の日までに売り切れた。
この本が示したのは、二つのことだった。一つは、生き物の種は神が一度に造ったまま変わらないのではなく、長い時間のうちに変化し、枝分かれして新しい種が生まれる、ということ。もう一つは、その変化を起こす仕組みが「自然選択」だということである。種が変わるという考え自体は、ダーウィン以前にもあった。祖父のエラズマス・ダーウィンも、フランスのラマルクもそれを論じている。新しかったのは、変化の仕組みを、神の計画や生き物の内なる意志を持ち出さずに説明したこと、そしてそれを膨大な観察で裏づけたことだった。
出発点は、20代の航海にある。ダーウィンは1831年から5年間、イギリス海軍の測量船に乗って世界を回った(ビーグル号の航海)。南アメリカでは、今はいない大きな動物の化石を掘り出し、それが今そこに住む動物とよく似ていることに気づいた。ガラパゴス諸島では、島ごとに少しずつ違うマネシツグミやゾウガメを見た。帰国後、持ち帰った鳥の標本を鳥類学者が調べると、島ごとに別の種に分けられることが分かった。種は変わるのではないか。1837年、ダーウィンは秘密のノートに、一本の幹から枝が分かれていく小さな木の図を描いた。

仕組みの手がかりは、意外なところから来た。1838年の秋、ダーウィンは楽しみのためにマルサスの『人口論』を読んだ(『人口論』)。人口は食料よりも速く増えようとするので、多くの者は生き残れない、という議論である。これを生き物全体に当てはめればよい、とダーウィンは気づいた。
自然選択の議論は、単純である。生き物が産む子の数は、育つことのできる数よりずっと多い。同じ種でも、個体には少しずつ違いがある。その違いの一部は、親から子へ伝わる。それなら、その環境で生き残りやすく、子を残しやすい違いを持つものが、世代を重ねるごとに増えていく。人間が品種改良で、望む性質を持つハトや犬を選んで掛け合わせるように、自然が、生き残るかどうかという形で選んでいる。小さな違いが何千何万世代と積み重なれば、別の種になるほどの違いになる。

ダーウィンは、この考えを20年近く公にしなかった。1844年には200ページを超える論考を書き上げ、自分が急に死んだら出版するように、と妻に頼む手紙まで残しているが、出さなかった。ちょうどその年に、種の変化を論じた匿名の本が出て、科学者たちから激しくこき下ろされていた。教会との摩擦も、熱心な信者だった妻の気持ちも気にかかっていた。何より、反論の余地がないほど証拠を集めておきたかった。フジツボの分類だけに8年をかけている。
1858年6月、その慎重さが崩れる。マレー諸島で生き物を採集していた若い博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスから、論文が送られてきた。そこには、ダーウィンが20年温めてきたのとほとんど同じ考えが書かれていた。友人の地質学者ライエルと植物学者フッカーの計らいで、7月、二人の論文がロンドンのリンネ協会で一緒に読み上げられた。反応は乏しく、協会の会長はその年の終わりに、今年は目覚ましい発見の無い年だったと振り返ったという。ダーウィンは急いで、大著の要約として『種の起源』を書き上げた。

本の中で、ダーウィンは自分の説の弱点にも正面から向き合っている。目のように精巧な器官が、小さな変化の積み重ねでできるのか。中間の形の生き物の化石が、なぜ見つからないのか。そうした難点を一つずつ挙げ、それに答えようとした。本に載っている図は一枚だけで、それは種が時間とともに枝分かれしていく様子を示したものだった。
人間について、この本はほとんど触れていない。終わり近くに、人間の起源とその歴史にも光が投げかけられるだろう、という一文があるだけである。それでも、読んだ人は何を意味するか分かった。人間もまた、ほかの生き物と同じ道筋でできてきたことになる。人間を自然の外に置く見方が、ここから揺らぎはじめる。ダーウィン自身が人間の進化を正面から論じたのは、12年後の『人間の由来』だった。

反響は大きかった。翌1860年、オックスフォードで開かれた学会で、この本をめぐる論争が起きた。オックスフォードの主教ウィルバーフォースと、ダーウィンの説を擁護した動物学者ハクスリーの応酬は有名だが、正確な記録は残っておらず、よく語られるやりとりには後の脚色が混じっているとされる。聖職者の中にも、この説を受け入れる者はいた。人々を分けたのは、信仰の有無よりも、自然を説明するのに神の手を持ち出すかどうかだった。
大きな穴も残っていた。遺伝の仕組みが分からなかったのである。当時は、親の性質は子の中で絵の具のように混ざり合うと考えられていた。それなら、せっかく現れた有利な違いも、世代を重ねるうちに薄まって消えてしまう。この批判に、ダーウィンは満足な答えを出せなかった。答えになるはずのグレゴール・メンデルの論文は、この7年後の1866年に出た(メンデルのエンドウの論文)。性質は混ざらず、粒のような単位として伝わる、という内容だったが、ほとんど読まれないまま30年あまり埋もれた。

1900年にメンデルの法則が再発見され、20世紀の前半に、遺伝学と自然選択の理論が結びついて、進化の「総合説」ができあがる。1953年にDNAの二重らせんが明らかになると、親から子へ伝わる違いの正体そのものが見えるようになった。ダーウィンが知らなかった仕組みが、後から彼の議論の正しさを裏づけた。
この本はまた、生物学の外で乱暴に使われもした。強い者が勝つのは自然の法則だとして、貧富の差や植民地支配や人種差別を正当化する「社会ダーウィニズム」が、彼の名を借りて広まった。生き残りやすい違いが増える、という記述は、どう生きるべきかを教えるものではない。一方、アメリカでは1925年、学校で進化論を教えた教師が裁かれた(スコープス裁判)。160年あまり経ったいまも、この本が投げかけた問いは、科学の外の場所で論じられ続けている。